赤壁の戦いについて
三國志最大のクライマックスである赤壁の戦いですが、大きく二説あるようです。
一つは、演義は脚色があるものの、周瑜率いる呉の水軍が曹操を完膚なきまでに破ったというもの。
正史の記述が淡白なのは、魏を正統とする立場だからやむを得なかったのだというもの。
もう一つが、そもそも戦い自体が創作であり、曹操は疫病の大流行を理由に撤退したに過ぎないというもの。
正史であろうと、事実は事実として書くべきだから、本当に大敗したらもっと詳しい記述があるはずだというもの。
皆さんはどう思いますか?
正史の記述が淡白だなんて与太話をどこで聞いたのか知りませんが、赤壁の戦いは正史の中でも戦況の推移が詳しく載ってる方ですよ。二説もヘッタクレもなく正史の記述で十分どんな戦いだったか分かります。というか質問者様は正史と演義の違いがどういうものか、そして正史がどういう書物なのか知らないご様子ですね。演義は物語、小説と同じ。歴史を書き綴った書物じゃありません。正史は歴史書。(多少魏を正当とするバイアスはかかっているものの)歴史的事実を書き記した書物。演義と正史どっちが正しいとか比べること自体間違ってるんですよ。
正史は三国の記録がそれぞれ独立しています。魏書は魏の人物についての書物、蜀書は蜀の人物についての書物という風にね。赤壁に関する記述が薄いのは魏書と蜀書での話。それでも実際赤壁(正確には烏林)で曹操が敗北したという記述は武帝紀・先主伝にバッチリ載っています。そして呉書、特に周瑜伝には戦いの様子が詳細に記録されています。記述が薄いとされるのは「その歴史的意義を鑑みると記述量が少ない」というだけであって、一つの戦いとしてみれば記述量は十分過ぎます。逆に官渡の戦いなどは蜀書や呉書にはほとんど記述がありません。魏書には詳しく載っている。そういうもんなんですよ。
正史の記述をまとめると、
『曹操は陸口を制圧すべく軍を進めるが、赤壁で周瑜らの水軍と遭遇し敗北する。両軍は烏林の北岸と南岸で睨み合いに入る。曹操の軍勢は疫病が猛威を振るい動けない、周瑜らも数で劣るうえ周瑜と程普に指揮権が二分されており身内同士でメンツの張り合いを起こす有り様。両軍とも決めてに欠ける中、黄蓋が偽降伏による火計を提案。周瑜はこれを了承し実行に移す。曹操はまんまとこれを信じ込み、火をかけられる。タイミング良く強風が吹き(註釈には東南の風とあり)、曹操の軍船は大炎上。疫病と軍船の焼失で戦闘不能に陥った曹操は南郡に曹仁を残し撤退した。』
ちっとも淡白なんかじゃありません。ここまで細かに陣営内部の様子まで分かってる戦いなんてほとんどありませんよ。私は赤壁で起こったことはこれ以上でも以下でもないと思っています。
三国志最大のクライマックスは官渡の戦いですよ。あの一戦で袁紹が負け、袁一族が滅んでいく(それでも七年かかっていますが)んで、曹操の政権が誕生するきっかけになったのですから。
ただし、官渡の次のターニングポイントは赤壁であることは否定しません。曹操が孫氏政権を屈服させていれば統一だったんですから。
正史の記述が淡泊かと言われれば武帝紀は確かにわりとあっさり。紀の方はいつどこで何があったか、事実があればそれでOK。各人物の活躍は列伝に載せればいい話。本紀に全部記述したら列伝の意味がないですから。hidakaさんのおっしゃるとおりなんです。淡泊ではないですよ。周瑜、黄蓋の伝を読み、想像すれば凄い戦いだったことがわかるはずです。
赤壁に関しては細かいエピソードは別として、ほとんど正史と演義の大まかな話の内容は変わりません。
長江を挟んで対峙し、呉が大勝利を収めた、それが真実だと思われます。
疫病大流行の件は、赤壁の後、曹操が負け惜しみで言った「疫病が流行った為に船を全て焼いて撤退した」事だと思います。このセリフは正史にも記述があるそうですよ。
0 件のコメント:
コメントを投稿