2012年3月11日日曜日

レッドクリフ1・2を見ました。映画では、赤壁の戦いでシュウユ・リュウビ軍が勝っ...

レッドクリフ1・2を見ました。映画では、赤壁の戦いでシュウユ・リュウビ軍が勝ったっぽいですが、実際はどんな結末だったのでしょうか!?そしてソウソウはあの戦いの後どうなったのでしょうか!?







先行の皆様のご回答には、いずれも小説『三国志演義』の影響が見受けられますね。私は正史『三國志』から回答致しましょう。



208年7月、曹操は荊州の劉表を攻めるべく、軍を発して南下を開始しました。

しかし翌8月、荊州の劉表は病死し、後を継いだ次男の劉ソウ[王宗]は9月、戦わずに曹操に恭順する事を決定します。

曹操は荊州のほぼ全土を支配下におさめ、旧劉表配下の処遇や荊州各郡の太守配置など人事を一通りすませてから11月に孫権に対して降伏勧告の手紙を送ります。



劉備は劉表死後も荊州の新野に駐屯していましたが、9月に荊州が降伏した事を知らされず、曹操軍が目前に迫って初めて気付きます。

慌てて南下して江陵に逃れようとしますが、物資の集積地である江陵を押さえられるのを嫌った曹操が軽騎兵を急派して劉備軍を打ち破り、劉備は船で東(揚州)との境界に近い夏口に逃げ延びます。

劉備は諸葛亮の進言で孫権に救援要請する事を決断し、諸葛亮を呉に派遣します。折しも劉表の病死と曹操の南下を受けて劉備の動向を気にしていた孫権配下の魯粛が荊州にやって来ており(名目は劉表の弔問)、諸葛亮を伴って呉に戻ります。



呉では群臣の多くが曹操への恭順に傾き孫権も迷っていましたが、諸葛亮は「劉備は曹操に屈しない」と明言し、魯粛は「外事は周瑜に相談すべき」と説き、周瑜は曹操軍の不利と自軍の有利を極めて的確に分析し「3万あれば必ず曹操軍を打ち破る」と宣言します。



こうして孫権は開戦を決断し程普と周瑜に3万の軍を授け、それを受けて曹操も烏林まで軍を進めます。

緒戦で周瑜の水軍に敗れた曹操は烏林北岸に軍を留め、戦況は膠着します。これを打開すべく黄蓋は火計を進言し、その為に曹操へ偽りの降伏を打診します。

曹操は最初疑いましたが、黄蓋と周瑜が不仲であり、黄蓋はむち打ちの刑を受けて重傷を負って恨んでいる事、呉の臣下も人民も曹操の徳を慕っており、周瑜と魯粛だけが意固地になっている事…などと伝える黄蓋の手紙を読み、黄蓋が遣わした使者を引見し細かく質問し、ついに信用します。

曹操は曹操で、緒戦の敗北や荊州降伏兵の加入で士気が上がらない事や、不慣れな風土で陣中に蔓延していた疫病に悩まされており、船を繋いで水上の揺れを軽減するなどの対策も効果なく撤退まで視野に入れていたところだったので、黄蓋の偽降を信用したくなったのも無理はありません。



そして約束の日、黄蓋は油を染み込ませた藁束を満載した高速船に火を放ち、曹操の繋いだままの船団に突っ込ませます。火は瞬く間に曹操の軍船を焼き払い、陸上の陣営までも延焼します。

曹操軍は焼死や溺死など多大な損害を出し、撤退するしかなくなりました。



ちなみに劉備は、夏口に逃れた時に約2000しか兵力をもっておらず、孫権の助力を得たものの勝ち目は薄いと考えていました。加えて周瑜が率いてきた3万を少なすぎると考え、周瑜が「後方でとくとご覧あれ」と勧めたのもあり後方に待機していました。

つまり、関羽・張飛・趙雲を含めてほとんど戦闘参加していません。また諸葛亮も劉孫同盟に貢献した後は特に何も記されてはおりません。



曹操は荊州の州都である襄陽や物資集積地である江陵に曹仁らを残し、自らは本隊を率いて荊州から一路北を目指します。周瑜・劉備らはそれを追いますが、江陵で曹仁に足止めをくらい、徐晃・李通らが曹仁の援軍として次々に投入された事もあって、約1年にも及ぶ激戦を戦う事になります。

曹操は3月にはショウ[言焦]へと無事に帰還を果たしました。

また劉備は周瑜ら呉軍と別れて荊州南方の征討へと向かい、長沙・桂陽・零陵・武陵と次々に陥落させ、徐州失陥以来久々に独自の根拠地を得る事となります。

孫権はこれを不満を持ちましたが、反曹操としての劉備を必要と考えた魯粛の進言により、劉備の荊南支配を認めます。



周瑜は最終的に曹仁を敗走させ宛など一部を除いた荊州北部の制圧に成功しますが、戦いのさなかに重傷を負い、その治療もそこそこに益州攻略を計画しますが、結局負傷が癒えず他界してしまいます。



以上、赤壁の戦い前後の大まかな流れです。

魏書太祖武帝紀(曹操伝)

蜀書先主伝(劉備伝)

呉書周瑜伝

呉書黄蓋伝

などを参考にしました。










曹操はわずかな部下とともに逃げますが

途中で劉備軍の攻撃や難行軍で次々兵を失い

ぼろぼろになりながら曹仁の城までたどり着きます。

その後さらにわずかな兵とともに許都?へ帰ったそうです。その間に

劉備がけいしゅうを奪います。







実際も劉備・孫権が勝ち、その逃げる道で劉備の部下たちが待ち受けていて曹操のわずかな兵は粉々に粉砕されますが、いろいろあってなんとか助かります。



それから南下をやめます(延期)。

そのあと勢力を盛り返してまた何度も攻めてきます。





正史はあまり読んでませんでした。

なのに知ったかしてすいません。







http://mwkp.fresheye.com/mb/m.php/%e4%b8%89%e5%9b%bd%e5%bf%97?from=...

旦那曰く、あれは妙な脚色ありすぎでレッドグリフは微妙だそうです。

確かに派手な部分ではありますが、嘘の脚色で綺麗にしすぎな上に、尻切れとんぼ状態で歯がゆいらしいですよ。







赤壁の戦いで曹操をやぶったが

その後劉備わ曹操を追撃したが

にげられ

孫権わ曹操の逃げた

合肥をせめた

0 件のコメント:

コメントを投稿