2012年3月11日日曜日

三國志に関する質問です 士燮とその一族…兄弟や親子関係の人物の名前、字、血筋、...

三國志に関する質問です

士燮とその一族…兄弟や親子関係の人物の名前、字、血筋、経歴をなるべく詳しく教えてください。士燮もお願いします


孫権に領土を奪われたことしか知りません



よろしくお願いします







【士燮(ししょう)】137年?~226年。字は威彦。

「正史三国志」の宗族(孫氏)の後、

あの太史慈伝の次に挙げられ、

併記ですが、士燮伝として筆頭に挙げられる、

隠れた大物です。



士燮は、ベトナムでは「シーティェップ」と呼ばれ、

ベトナムの歴史の教科書にも出てくる大物です。

南交学祖とも呼ばれ、

士燮がベトナムに文化や字を伝えた始祖として敬服されています。

喃語(ベトナム文字)の考案者ともいわれます。



士燮は三国志では交州の交趾太守に過ぎません。

交州刺史ですらありません。

それでいて、士燮伝に、

『士燮兄弟は並ぶ者もない権威を振るい、

外出や帰還の時には鐘が鳴り、楽隊が揃い、

お付きの車や騎馬が道一杯にあふれ、

左右には香を焚く胡人が数十人いた。

妻たちは専用の車に乗り、子供たちは歩兵や騎兵を従え

異民族たちを服従させていた。』

とあるように、栄華を極めています。

交州独自の物産と、

「南海貿易」の利権で、莫大の財を築いたとされます。



士氏の先祖はもともと魯国のブン陽の人でしたが、

王莽のために混乱が起こると、それを避けて交州に移った。

それから6代目が士燮の父の士賜とされます。



遼東の公孫氏を魏・呉・蜀に続く四つ目の鼎立政権として、

数える説があるのに対して、公孫氏に劣らない勢力でありながら、

士燮が独立勢力として数えられる事がないのが、チョッと残念な気がします。



士燮伝に

『士燮は温厚な人柄で、謙虚で驕る事がなかったので、

士燮の元に身を寄せて難を逃れる者が何百人にものぼった。』

とあります。



この時代、戦乱を避けて江東や荊州に避難し、

士燮の元にいた(一時的にでも)人物を正史から探ってみても、

袁忠・袁徽・桓邵・許靖・劉巴・程秉といった人物が見つかります。

交州刺史であった朱符や張津ではなく、

士燮を頼ったのは信頼に足る教養人だったからだと思います。



士燮は交州の地理的要因や、地力を冷静に分析し、

中央の動静には避難してきた知識人から情報を得ていた形跡があります。

こうした情報網があったからこそ、

士燮の政治判断力が正確で、住民達を慰撫し、

身の丈以上の権力を望まずであったからこそ、

士燮が死ぬまで、

孫呉政権が交州の直接支配ができなかった理由だと思います。



その後、孫権は歩騭に軍を預けて交州に侵攻して来たとき、

士燮は民衆を戦火に巻き込むことを嫌って、

孫権に息子を人質として差し出してあっさりと降伏しました。

孫権は、士燮の交州での人望を見て、直接支配をあきらめ、

武昌の太守に任じて、厚く遇しています。



士燮は90歳で亡くなりますが、中央での戦乱に巻き込まれるでもなく、

貿易で財をを成し、栄華を極め、半独立勢力として自由に生きた、

幸せな人生だったのではないでしょうか。



【士壱(しいつ)】?~242年?

士燮の弟。

後漢王朝の督郵(行政官の監視役)。

董卓に睨まれ、身の危険を感じて都を離れて、

兄士燮のもとへ帰郷しました。

その後、劉表が交州へ支配を伸ばそうとしたため

兄の士燮は曹操と結んでこれに抵抗しようとしますが、

兄の推挙で合浦の太守に任じられます。

226年の士燮の没後、士氏は衰退、

士徽の乱により孫権によって滅亡します。

子の士匡とも、命だけは許されたものの、

士壱も法を犯したという名目の下で処刑されてしまいました。



【士祗(しし)】163年?~?

士燮の次男

父と同じく領民思いの温厚な人物で、

弟の士徽が、孫権に対して反乱を起こしたとき、

士祗も反乱に参加しましたが、むしろ消極的であったといわれています。

従兄弟の士匡の説得で、士祗は降伏します。

弟の士徽や士幹らの説得に当たり、彼らも降伏させますが、

呂岱の騙し討ちに遭い、会見場で兄弟皆殺しにされてしまいました。



【士徽(しき)】165年?~?

士燮の三男。

父・士燮の死後、呉の孫権から安遠将軍・九真太守に任命されました。

しかし父の代から交州を治めていた士徽は、

後任の交州刺史戴良と交州太守陳時の着任を阻止しようと、

孫権に対して反乱を起こします。

討伐のため派遣された呂岱に激しく抵抗しますが、

兄・士祗の説得を受け、自分の命を助けるという条件のもとに開城・降伏しました。

しかし、呂岱は士徽を許さず、

士徽は兄の士祗、弟の士幹、士頌もろとも会見場にて処刑されました。

首は、武昌にて晒されたといいます。



【士匡(しきょう)】生没年不詳

士壱の子。

従兄弟の士徽の乱には参加せず、

交州刺史の呂岱より従兄弟たちの説得を頼まれ、

士徽らを降伏させることに成功します。

しかし、騙し討ちによって士徽兄弟は皆殺しとされ、

士匡は、呂岱の助命嘆願と士徽らを降伏させた功績により、

父の士壱と共に死一等を免ぜられたものの、

官位剥奪のうえで庶民とされました。



【士賜(しけい)】

士燮の父。

桓帝(146年~167年)の時代に日南太守となりました。。



弟に、士壱、【士鞘】、【士武】、

子供に、長男【士廞】、士祗、士徽、四男【士幹】、五男【士頌】がいます。

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