魏の曹丕が太子に命じられたとき、
弟の曹植は、何処に行かされたのでしょうか?
何かの記述で、曹植が曹操の不興をかって(無断で司馬門を通ったなど)
太子を曹丕に決めたのだと思うのですが、
その際、曹植はどこかの地へ?飛ばされた(封じられた)
みたいなのを見た気がするのですが…
それが、どこかが分かりません
ドラマ三国志では、”ようじょう”と言っていた気がしますが、
漢字が分からないので、調べても分かりませんでした
後は、臨菑?というのもちらっと聞いた様な気がするのですが…
正確な所、今分かっているのは何処なのでしょうか?
正史『三國志』魏書の陳思王植伝(曹植の伝)によれば、211年、20歳の時に平原侯、214年(23歳)に臨シ(携帯では漢字が出ません)侯に封ぜられています。
同じく魏書の武帝紀(曹操の伝)には217年10月に曹丕を魏の太子としたことが記されています。
魏書文帝紀(曹丕の伝)を見ると、211年(曹丕25歳)に五官中郎将・副丞相になっており、魏の太子となったのはやはり217年(31歳)の時です。
この211年から217年の間、曹操は魏公(213年)から魏王(216年)へと進みますが、曹丕には官職を与えて封爵を与えず、曹植には封爵を与えて官職を与えていません。曹植をギョウ[業β]の守備に就かせたという記述がありますが、これは要するに魏王国の国都であったギョウに住んでいたというに過ぎません。
つまり曹植は実家暮らし、曹丕は副丞相として洛陽(後漢帝国の首都)で曹操の補佐をする、という形です。ですので曹操には最初から幼長の区別をはっきりさせ、嫡男たる曹丕を後継とする明確な意図があったものと考えられます。
ちなみに陳思王植伝を見る限り、曹植の司馬門通行事件は太子が曹丕に決まった後のようです。
太子決定後の曹植ですが、219年(28歳)に南中郎将・征虜将軍として曹仁への援軍の将の辞令を出すはずでしたが、酔っていて命令を受けられず取り止めとなっています。
その後曹植は、曹丕が帝位に登ると安郷侯(221年)→ケン城侯(221年)→ケン城王(222年)→雍丘王(223年)→浚儀王(227年)→雍丘王(228年)→東阿王(229年)→陳王(232年)と、目まぐるしく転封と移動を強制され、その間幾度となく政治に参画させて欲しいと願うも却下され、失意のうちに41歳で亡くなります。
死後に「思」と諡されたため、陳の思王と通称されます。
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