三国志正史についてです
当時は一騎打ちは、ほとんどなかったはずです
そこで本当にあったと思われる一騎打ちを教えてください
自分が知っているのは、
呂布対カクシ
馬超対閻行
ぐらいです
他にはどんなのがあるのでしょう?あと勝者も教えて下さいm(__)m
孫策と太史慈の一騎討ちは呉書太史慈伝の本文にありますね。
劉ヨウは太史慈を迎えたものの、偵察の任務しか与えませんでした。
太史慈が騎兵を1人だけ連れて敵情視察に向かった時、偶然に孫策と遭遇します。この時孫策は韓当・黄蓋・宋謙をはじめとした13騎を随行させておりとても挑める戦力差では無かったのに、太史慈はためらう事なく戦いを挑みます。孫策は太史慈の馬を突き刺し、太史慈がうなじのところにつけていた手戟を奪い、太史慈も孫策の兜を奪います。そこで敵味方の兵が集まってきて混戦状態になり、結局決着がつきませんでした。
つまり、引き分けたのではなく勝負をつけられなかったのです。
一偵察兵に味方の救援が来るのか…という疑問はあるでしょうが、当時の太史慈は同郷の劉ヨウの元に挨拶に来てしばらく留まっていただけの客将の身分であり、実は独立勢力の扱いです。その事実は太史慈の伝が劉ヨウや士燮(交州を支配していた群雄)と同じ巻に載録されている事からも見て取れます。
つまり、この一戦は「独立勢力のトップ同士がガチで戦った一騎討ち」であり、三國志どころか中国史上にもレアなケースです。
関羽と顔良の戦いは、個人的には一騎討ちではないと考えます。軍隊同士がぶつかり合った戦場での出来事であり、戦いのさなかに顔良の姿を認めた関羽が特攻をかけて顔良を討ち取ったというだけの話だと思います。
ついでに言えば、曹操が上表して授けた関羽の「漢寿亭侯」という爵位は「漢」の「寿亭侯」なのか「漢寿」の「亭侯」なのか「漢寿亭」の「侯」なのかはっきりせず、定説が定まっていないハズです。衍字(余計な文字)があるかも知れない…という説もあるようです。
ちなみに、呂布対郭シは呂布の圧勝、馬超対閻行はフルボッコで閻行の圧勝ですね(笑)。
kanshinshunjyuさんが既に良い意見を述べていますが、補足します。
三国志演義には創作が多く、下記のサイトによると有名な武将による一騎打ちの話は殆どが嘘の様です。
三国志の嘘>一騎打ちはなかった?
http://www.geocities.jp/fghi6789/gunji.html#ikkiuchi
三国志演義にみられるような、「敵の大将出てこい。俺と1対1で勝負しろ」みたいな試合形式の一騎打ちは基本的に存在しなかったようです。
但し、夏侯淵将軍の様に積極的に自ら先陣で奮戦し味方を引っ張るタイプの武将もいたので、そういう司令官同士が戦った場合には結果的には一騎打ちみたいになった事例がある可能性は有ります。
既に指摘がありましたが、孫策と太史慈の対戦については可能性はあると思います。
元々試合をするつもりで戦ったのではなく単に決着がつかなかった事を引き分けと言っているだけではないでしょうか。
孫策は勇猛で単独行動も多く、そのために結局殺されている事を考えても太史慈との対戦には特に不自然さはないと思います。
私の知る範囲では
「三国志」に記載:関羽対顔良、孫策対太史慈
注釈の書物に記載:呂布対カクシ、馬超対閻行
があります。
一級史料である陳寿の「三国志」に記述のあるものは、信頼して良いと思います。
「三国志」は事実を簡潔に書いており、派手な逸話がほとんど無い為、信憑性は高いと思われます。
逆に簡潔過ぎる為に、裴松之という人物が他の書物から逸話等を引用して注釈を作っていますが、こちらは一部に荒唐無稽な記述も目立つ為、三国志に比べて注釈部分の信憑性は劣ります。
個別の信憑性ですが、まずは関羽対顔良に関して。
当時は諸侯の下に関内候という定まった領地を持たない諸侯と言うべき爵位があり、大功を立てた家臣でも最初は関内候に取り立てられるのが普通でした。
にもかかわらず関羽は白馬の戦いの直後、無爵から一足飛びで諸侯になっており、曹操の厚遇ぶりを差し引いても、かなりインパクトのある功績を立てていると言う事であり、これが一騎討ちで顔良を討ち取った事と符合します。
孫策対太史慈に関しても、孫策は勇猛な上に軽率な振る舞いが多かったようなので、それ程疑わしいものでは無いかと思われます。また演義では数十合も打ち合ったとされていますが、正史では数合打ち合った所で、それぞれ味方が押し寄せた為に引き分けたとなっており、珍しい事ではあっても信憑性が無いとまでは言い切れないかと思われます。
他の呂布対カクシ、馬超対閻行に関しても、関わった人物が全員辺境出身の武辺者ですから、充分ありえる事と思われます。
結論ですが、注釈を含めてもたったの数件のみしか記述が無い事、またその後の史書にも一騎討ちの記述は散見されている事から、実際に一騎討ちがあった可能性は充分に高いと思います。
補足見ました。確かにどれも作り話の感じはしますね。でも戦場での一騎打ちでなければ少しは信憑性が出てくるのではないでしょうか?許褚VS典韋。三国志演技の中で描かれていますが、曹操ならやらせてみた可能性はあるかもしれません。
孫策と太史慈を忘れてはいませんか?
これは殆ど三国演義と変わっていません。結果も引き分けです。
あと、関羽が大軍のただ中を突っ込んで顔良の首を取ってきたという逸話も史書に残る事実であり、
これもなかなかブッ飛んだ・とんでもない話ですね。
【補足について】
引き分け、というのは、片方の部下があとからやってきたために、手打ちにして逃げた、という経緯だったはずです。
孫策と太史慈の気質(野心家、果断)を考えると、史書に記録が残るのも頷けるかなと思いますが。
極論をいってしまうと、全て「怪しい」というしかないですよ。
信憑性については、陳寿の本伝にある記述であれば、裴松之の注釈よりかは高いものでしょう。
武将を称えるために話を「盛ってる」ことは、実際ずいぶんあるのでしょう。真偽は確かめようがありません。
でもそうするともはやいよいよキリがないのですね。
また、あえていえば武勇があるから有名になったとも言えますよ。
少なくとも虚名だけで生き延びられるような時代ではありませんでしょう。
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