袁紹の病症について
最後まで後継者を決めずに病死した袁紹ですが
当時の彼には後継者を誰にするか考え、決定する余力はあったのでしょうか?
『袁紹は失意の内に病死した』という事は良く聞きますが、
『袁紹の病症』についてはあまり聞きません。
当時の袁紹の病症は
苦しくても、相手と会話する事に問題はないものだったのか。
それとも後継者はおろか、
自分の意思を相手に伝える事が出来ない程、酷いものだったのか
どうかよろしくお願いします。
正史『三國志』には、袁紹がどんな病気だったか書かれていないので推測するしかありませんが、恐らくは急死だったのだと思います。
袁紹は健在のうちから三男の袁尚を可愛がり、ゆくゆくは彼に後継を任せるつもりだったであろう事が、魏書袁紹伝からうかがえます。また裴松之の注に引かれた審配の書簡には、長男の袁譚が家を出て、死亡した袁紹の兄弟の家督を継いだと思わせる一節があります。
であるならば、袁紹の後継は袁尚であると、配下の大多数が考えていたはずです。家督争いもなくすんなり決まっても良さそうなものです。
しかし袁紹は正式に袁尚を後継しないまま没しました。
袁尚を推す重臣達が早速袁尚を後継に立てようと動き出しますが、これと対立していた重臣達は長男の袁譚を担ぎます。袁尚も袁譚もその気になって互いに譲らなかったので、旧袁紹陣営は二分され、曹操に各個撃破されてしまいました。
ただし、正史『三國志』に書かれている袁紹の死が「失意の病死」でしかなく、闘病の期間も特になく死の直前ごろまで反乱鎮圧に駆け回っている事などを考えると、色々と裏読みができそうです。
例えば遺書を記して後継を定めたものの、袁譚派あるいは袁尚派に握り潰された…とか、本当は袁尚を指名していたが袁譚派が納得せず反乱に及んだ…とか。
まあ、普通に考えれば袁尚を後継に選んでいたのだと思いますけどね。袁尚は一貫して本拠地であるギョウ[業β]を押さえていますし、軟弱と嫌われて後継になれなかった次男の袁熙は袁尚に従っていますし。
単純に、袁尚を後継とした事実が後世に伝わっていないだけのように思います。
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