2012年3月11日日曜日

質問-35 三国時代の旧正月について

質問-35

三国時代の旧正月について

日本では残すところあと1週間で平成21年が終わります。

今年もいろいろあって激動でした。

年賀状は書き終わりましたか?

中国は旧正月を祝うんですよね。2月3~5日でしたっけ?



ところで、今から1791年前、西暦220年建安25年は後漢最後の年、

3月に改元されて延康元年になるわけですが、

当時の旧正月というのは、やはり大々的にお祝いしていたんですか?

お目出度い書とか絵を飾ったりする習慣は当時あったのでしょうか?

(220年は献帝も正月どころではなかったと思いますが)



誕生日とか言う習慣はまだ無かったようですから、

感覚的に、旧正月(歳首)を迎えて、

自分の歳も一つ加えるようなイメージがあるんですが、どうなんでしょう?



例えば、君主からお年玉的なものが、

配られたりということがあったりしたのでしょうか?



うちの子供は二人とも社会人になりましたので、

お年玉は孫が生まれるまで必要ありません。

先日、息子から逆にお年玉あげようかなんていわれて、

丁重にお断りしました。







…もう何書いても誤回答になってしまいますね( ̄∀ ̄;



ひとつだけ。

建安から延康への改元は3月ではなく1月末から2月初旬のはずですよ。曹操が薨去し曹丕が魏王を継いだ直後だったはずです。

(ちくま訳八巻の年表上は1月になってます)

当時の改元は翌年の年明けから適用というのが慣例ですが、建安25年をキャンセルして年始から延康元年としたのか、1年待って翌年正月から延康にする予定が漢魏革命により翌年が黄初(魏王朝の年号)、年内が延康となったのかは定かではありません。



年初には新年を祝いますが、jiitanioさんがお詳しすぎるので私にはもう何も書けません(^_^;

蛇足的なエピソードを挙げます。

『三國志』魏書朱建平伝に夏侯威の寿命を占った記事があり、占いに出た通りに夏侯威は病を患います。49歳の12月上旬に病気になり、下旬には快方に向かいますが、30日夕方に容態が急変し未明に死去します。

この時の夏侯威の言葉に「明日の鶏鳴になればもう50だ(朱建平の指摘した災いは過ぎた)」と語った記述があります。この記事から、当時の年越し(と加齢)のタイミングが日没ではなく夜明けだった事が分かります。



本当に蛇足です(^_^;








日本は「もういくつ寝るとお正月」ですね。

中国は旧暦元月初一(旧正月)を祝うので、新年ムードはまだまだです。

新暦1月1日は休日ですけど、まあ、普通の休日って感じですね。

今年は新暦2月2日が除夜(中国語では「除夕」)、2月3日が春節です。

2009年は新暦1月25日が除夜、26日が春節で、1月に2回新年を祝えて得した気分でした(私だけ?)。



現在、旧暦元月初一を「春節」と言っていますが、この名称が確定したのは中華民国以降のことで、それ以前の「春節」とは立春のことを指したとも言います。

農民にとっては正月より立春の方が大事な節目だったのでしょう。

通常、旧正月と立春は近いので(だいたい前後10日位)、民国時代以降、名称の変更が比較的容易に受け入れられたのかもしれません。

正月は数えで1歳増える日ですが、それよりも「古い一年から新しい一年に変わる日」という意味合いの方が大きく、現在でいう誕生日的な位置付けは無かったと思います。

「除夜」の「除」は「去」の意味で、「除夜」は「古い時間から去る夜」とされています。

1年間でとりついた悪運を除くため、魔除けの儀式等も行われたようです。

年末大掃除はこの名残かもしれません。



後漢から三国時代、旧正月は何と呼ばれていたかですが、

「歳旦」「正旦」「正日」「元辰」「元日」「元首」「歳朝」

等という名称が有ったようです。

清代になって

「元旦」「元日」

という名称が確定したようです。

(現在の中国では「元旦」は通常、新暦の正月を指します)



春節の行事ですが、後漢崔寔の『四民月令』という農書に詳細が書かれているようです(原文は未確認です)。

大意はこんな感じです;

正月になったら酒を神様に勧めて降臨を祈ります。その後、尊卑大小の区別なく家中のものは全て、先祖の前に座り、子、孫、曾孫が家長にお酒を勧めます。

また、新年になったら君、師、親戚、父の友人、知人、村や町の幹部にあいさつ回りに行きます(これを「拜年」といい、現在でも行われます。私も留学時代、先生の家を訪問して回りました)。



宮中では漢代から宴会が開かれていました。

『晋書志第十一礼下』の記述です。

「漢儀有正会礼,正旦,夜漏未尽七刻,鐘鸣受賀,公侯以下執贅夹庭,二千石以上升殿称万歳,然後作楽宴飨。魏武帝都鄴,正会文昌殿,用漢儀,又設百華灯」

漢代の儀礼では正月になると、まだ夜が完全に明けないうちに鐘が鳴り、朝賀が始まったようです。公侯以下、臣下が貢物を持って朝廷に集まり、二千石以上のものは殿上で万歳を称えました。その後、宴会が始まります。

魏武帝は鄴都文昌殿で漢の儀礼に則って朝賀会を行い、百華灯を設けたそうです。



元の『文献通考第百六王礼考一』に「貢物」に関する記述が有ります。

「公、侯璧,二千石羔,千石、六百石雁,四百石以下雉。」

公侯は璧、二千石は羔羊(子羊)、千石、六百石は雁、四百石以下は雉だったようです。



『文献通考』には行事の詳しい内容も有りました。

簡単に説明すると;

三公が璧を献上するため殿に上り、北面して席に座ります。太常が祝辞を述べ、三公が伏します。皇帝が席に着いたら、璧を献上します。その後、百官が杯を持ち皇帝に酒を勧め、司空が羹、大司農が飯を奉上し、食事をする時の音楽が演奏され、宴会が始まります。

宴会は日が暮れるまで行われたようです。

(『文献通考』には更に細かい内容が書かれていますが、省略させていただきます。

http://www.confucianism.com.cn/detail.asp?id=13543

真ん中よりちょっと下辺りです)



どうやら皇帝から臣下に「お年玉」を出すのではなく、臣下から皇帝に貢物を献上したようですね。



皇帝から臣下へは

「諸侯王朝見天子,漢法当四見。始到,入小見;到正月朔旦, 奉皮荐璧玉賀正月,法見;後三日,為王置酒,賜金銭財物;後二日,復入小見, 辞去」

とあります(『文献通考』より。おそらく『史記』からの引用です)。

諸侯王は4回皇帝に会うことになっていて、1回目は都に入った時、2回目は新年の朝賀の時、3回目はその3日後、王のために酒宴を設けた時、最後はその2日後、国に帰る時です。

3回目の宴会の時に「金銭財物」を下賜したようです。

他の臣下に対しても、正月の宴会の席ではなく、後日に金銭財物が下賜されたと思われます。

具体的な数量はちょっとわかりませんでした。



民間のお年玉(中国では「圧歳銭」といいます)は漢代には有り、元々は魔除けの意味が有ったらしいです。

詳しく書けばきりが無いのですが、そろそろ字数が無くなるので、これにて・・・。







少し時代が後になりますが、『荊楚歳時記』等を見ますと、暗い内から百官は松明を掲げて宮中に出仕し、夜明けとともに皇帝を迎えて朝賀の儀が行なわれました。

それが終わると帰宅し、爆竹(今の火薬を詰めたものではなく、青竹を火にくべてはぜるもの)を鳴らして悪鬼を払い、門には画鶏や桃の板を掲げて邪を払いました。

また、家族揃って衣冠を正し、椒柏酒(山椒とビャクシンを配合した香りの強い酒)を進め、桃湯を飲み、屠蘇酒・膠牙湯(固い飴・歯を丈夫にすることを願う)を進め、五辛盤(にんにくなど五種類の刺激の強い植物で邪気を払う)を食べた…等の記録があります。



ところで、この時代は旧暦ですから「旧正月」などありません。1月1日が正月です(それが今の季節では2月上旬です)。

裴松之の注について。賈詡伝だけちょっと感情的ではありませんか?あとまったく関...

裴松之の注について。賈詡伝だけちょっと感情的ではありませんか?あとまったく関係のないことも長々書いてあるし・・・

確かに長安動乱の基をつくった人物ではあるのですが・・・

皆様はどう思われますか?







たしかに、感情的というか、

裴松之の主観と、陳寿の評との違和感はありますね。



『三国志』裴松之注の執筆動機は、

仕えていた劉宋の文帝から

「『正史三国志』は正確な記述が多く、近世の良い歴史書だが、

ちと簡潔に過ぎるでいかん、ぬけているところもあるようだから、注をつけなさい」

と命令を受け、

その当時残っていた三国時代の史料を集めて注を作ったといわれます。



正史『宋書』の裴松之伝には

「上(劉宋の文帝)陳壽が三國志を注せしめ、

松之傳記を鳩集し、異聞を増広す。

既に成りて奏上す。

上、之を善して曰く、『此れ不朽為る矣』」と、あります。



その分量は約三十二万二千字という膨大なもので、

陳寿の著述方針のため、不採用になった記録を

裴松之は、自ら言うように、ピンからキリまで、

信憑性に関わらずに集めていったわけです。

その参考とした文献は二百数十種にも及びます。



この注には、信用できない資料もたくさん入っています。

そのことは裴松之も自覚しており、



注の完成を文帝に報告した上奏文(『上三國志注表』)で、

■陳寿が記録しなかった事で、記録に残すべきと思うことは、

全て取り入れ、その遺漏を補う

■ひとつの事柄について複数の記録がある時、

判断に迷うものでも全てを記述する

■それに明らかな間違いがあれば、指摘し訂正する

■本文の記述や、陳寿の著述に若干の個人的論評を行う

といっているほどです。



陳寿の正史本文と一緒に書かれているために、

しばしば混同しがちなため、

「いいかげんなことばかり書いてある。

勝手放題でまことにわずらわしい。」

と、唐の歴史家・劉知幾(りゅうちき)が著書「史通」で批判しています。



また、清の『四庫全書総目提要』では、

本文と関連性がない仙人などの、

あやしげな説話の引用をしていることが指摘されています。

裴松之は陳寿と違い、

「書いたものを見せられるとすぐ騙されやすい」

司馬遷タイプの歴史家であったともいわれます。



本文と注釈で話が食い違うことも多々あります。

自分で引用しといて

「この記述は出鱈目だ。話にならん」と、

自分でツッコミいれて憤慨してることもちょくちょくあります



さて、

【賈詡】は、ご存知のように、

董卓、李傕、段煨、張繍に仕えた後、

曹操の配下となり、曹魏2代にわたり重臣として活躍しますが、

機知に長ける参謀として、悪く言えば陰謀を巡らす曲者策士です。



曹操配下となる前に仕えた、

董卓以下の諸将は皆あまり評判のよろしくない連中です。

当然、主君の(悪い)評判は、

賈詡自身の評判にも跳ね返ってきます。



陳寿が賈詡に対して、

荀攸と共に「前漢の張良や陳平に次ぐ」と、

高い評価を与え、、

主君を換えながら処世術に長けて生き残った事実も評価しています。



主命を帯びて注釈を付ける裴松之が、

何でも詰め込む主義をとったこともあり、

簡潔を旨とした陳寿と対照的に、

賈詡の、多数あったであろう、

旧主君の影響をも受けた悪評を取りこぼさず、

本文と正反対に近い、

「(賈詡のような人物は)程昱・郭嘉らの伝と一緒に編入すべきであり

荀彧・荀攸と同列にするのは類別を誤っている」と、

厳しい評価したのも無理からぬことではなかったでしょうか。



裴松之の注は、賈詡に限らず、

陳寿の評価に反論する人物評も見受けられます。

賈詡がらみのエピソードが、

彼が策士である以上、基本的に行動が単純な部将達より、

どうしても捻くれた事実が多いため、余計に目立つのだと思います。



私は、賈詡さんあまり好きではありませんが、

彼の評価としては、年代的に近い陳寿の評に近い捉え方をしています。

三国志正史についてです 当時は一騎打ちは、ほとんどなかったはずです そこで本...

三国志正史についてです



当時は一騎打ちは、ほとんどなかったはずです





そこで本当にあったと思われる一騎打ちを教えてください





自分が知っているのは、




呂布対カクシ

馬超対閻行

ぐらいです

他にはどんなのがあるのでしょう?あと勝者も教えて下さいm(__)m













孫策と太史慈の一騎討ちは呉書太史慈伝の本文にありますね。

劉ヨウは太史慈を迎えたものの、偵察の任務しか与えませんでした。

太史慈が騎兵を1人だけ連れて敵情視察に向かった時、偶然に孫策と遭遇します。この時孫策は韓当・黄蓋・宋謙をはじめとした13騎を随行させておりとても挑める戦力差では無かったのに、太史慈はためらう事なく戦いを挑みます。孫策は太史慈の馬を突き刺し、太史慈がうなじのところにつけていた手戟を奪い、太史慈も孫策の兜を奪います。そこで敵味方の兵が集まってきて混戦状態になり、結局決着がつきませんでした。



つまり、引き分けたのではなく勝負をつけられなかったのです。



一偵察兵に味方の救援が来るのか…という疑問はあるでしょうが、当時の太史慈は同郷の劉ヨウの元に挨拶に来てしばらく留まっていただけの客将の身分であり、実は独立勢力の扱いです。その事実は太史慈の伝が劉ヨウや士燮(交州を支配していた群雄)と同じ巻に載録されている事からも見て取れます。

つまり、この一戦は「独立勢力のトップ同士がガチで戦った一騎討ち」であり、三國志どころか中国史上にもレアなケースです。



関羽と顔良の戦いは、個人的には一騎討ちではないと考えます。軍隊同士がぶつかり合った戦場での出来事であり、戦いのさなかに顔良の姿を認めた関羽が特攻をかけて顔良を討ち取ったというだけの話だと思います。

ついでに言えば、曹操が上表して授けた関羽の「漢寿亭侯」という爵位は「漢」の「寿亭侯」なのか「漢寿」の「亭侯」なのか「漢寿亭」の「侯」なのかはっきりせず、定説が定まっていないハズです。衍字(余計な文字)があるかも知れない…という説もあるようです。



ちなみに、呂布対郭シは呂布の圧勝、馬超対閻行はフルボッコで閻行の圧勝ですね(笑)。








kanshinshunjyuさんが既に良い意見を述べていますが、補足します。



三国志演義には創作が多く、下記のサイトによると有名な武将による一騎打ちの話は殆どが嘘の様です。



三国志の嘘>一騎打ちはなかった?

http://www.geocities.jp/fghi6789/gunji.html#ikkiuchi



三国志演義にみられるような、「敵の大将出てこい。俺と1対1で勝負しろ」みたいな試合形式の一騎打ちは基本的に存在しなかったようです。

但し、夏侯淵将軍の様に積極的に自ら先陣で奮戦し味方を引っ張るタイプの武将もいたので、そういう司令官同士が戦った場合には結果的には一騎打ちみたいになった事例がある可能性は有ります。



既に指摘がありましたが、孫策と太史慈の対戦については可能性はあると思います。

元々試合をするつもりで戦ったのではなく単に決着がつかなかった事を引き分けと言っているだけではないでしょうか。

孫策は勇猛で単独行動も多く、そのために結局殺されている事を考えても太史慈との対戦には特に不自然さはないと思います。







私の知る範囲では

「三国志」に記載:関羽対顔良、孫策対太史慈

注釈の書物に記載:呂布対カクシ、馬超対閻行

があります。



一級史料である陳寿の「三国志」に記述のあるものは、信頼して良いと思います。

「三国志」は事実を簡潔に書いており、派手な逸話がほとんど無い為、信憑性は高いと思われます。

逆に簡潔過ぎる為に、裴松之という人物が他の書物から逸話等を引用して注釈を作っていますが、こちらは一部に荒唐無稽な記述も目立つ為、三国志に比べて注釈部分の信憑性は劣ります。



個別の信憑性ですが、まずは関羽対顔良に関して。

当時は諸侯の下に関内候という定まった領地を持たない諸侯と言うべき爵位があり、大功を立てた家臣でも最初は関内候に取り立てられるのが普通でした。

にもかかわらず関羽は白馬の戦いの直後、無爵から一足飛びで諸侯になっており、曹操の厚遇ぶりを差し引いても、かなりインパクトのある功績を立てていると言う事であり、これが一騎討ちで顔良を討ち取った事と符合します。



孫策対太史慈に関しても、孫策は勇猛な上に軽率な振る舞いが多かったようなので、それ程疑わしいものでは無いかと思われます。また演義では数十合も打ち合ったとされていますが、正史では数合打ち合った所で、それぞれ味方が押し寄せた為に引き分けたとなっており、珍しい事ではあっても信憑性が無いとまでは言い切れないかと思われます。



他の呂布対カクシ、馬超対閻行に関しても、関わった人物が全員辺境出身の武辺者ですから、充分ありえる事と思われます。



結論ですが、注釈を含めてもたったの数件のみしか記述が無い事、またその後の史書にも一騎討ちの記述は散見されている事から、実際に一騎討ちがあった可能性は充分に高いと思います。







補足見ました。確かにどれも作り話の感じはしますね。でも戦場での一騎打ちでなければ少しは信憑性が出てくるのではないでしょうか?許褚VS典韋。三国志演技の中で描かれていますが、曹操ならやらせてみた可能性はあるかもしれません。







孫策と太史慈を忘れてはいませんか?

これは殆ど三国演義と変わっていません。結果も引き分けです。



あと、関羽が大軍のただ中を突っ込んで顔良の首を取ってきたという逸話も史書に残る事実であり、

これもなかなかブッ飛んだ・とんでもない話ですね。





【補足について】

引き分け、というのは、片方の部下があとからやってきたために、手打ちにして逃げた、という経緯だったはずです。

孫策と太史慈の気質(野心家、果断)を考えると、史書に記録が残るのも頷けるかなと思いますが。





極論をいってしまうと、全て「怪しい」というしかないですよ。

信憑性については、陳寿の本伝にある記述であれば、裴松之の注釈よりかは高いものでしょう。



武将を称えるために話を「盛ってる」ことは、実際ずいぶんあるのでしょう。真偽は確かめようがありません。

でもそうするともはやいよいよキリがないのですね。



また、あえていえば武勇があるから有名になったとも言えますよ。

少なくとも虚名だけで生き延びられるような時代ではありませんでしょう。

袁術は皇帝を名乗るだけあって英雄だったと思いますか?

袁術は皇帝を名乗るだけあって英雄だったと思いますか?

少なくとも三国志に欠かせない人物と思います。

董卓の次に必要な悪役だったと思います。

皆さまの袁術の評価はどうですか?







紛れもなく英雄と呼べる人物ですね。ただし、それは「皇帝を名乗ったから」ではありません。



正史の『三國志』や『後漢書』の袁術伝をよく見ると分かると思うんですが、元々中央政界にあって地方に地盤を持たなかった人物です。それが董卓のクーデターに際して身一つで地方に逃れ、荊州南陽郡の太守が死ぬと瞬く間に掌握と支配を完了し、豫州進出こそ結果的に失敗しますが揚州の寿春に進出し揚州北部を完全制圧しています。当時の揚州刺使は劉ヨウですが、『演義』で語られるような小人物ではなく名声も人望も軍事力も兼ね備えたひとかどの人物であったのに、それを正面から打ち破っています。

この間、約6年(189~195年)です。袁紹が公孫サン[王贊]を倒すのにかかった期間が約9年、曹操が袁紹の残党を掃討するのにかけた期間が約7年。それを考えれば相当な実力と才幹の持ち主です。また、そういった軍事的行動と平行して袁紹の劉虞擁立を弾劾し、孫堅・孫策を配下に迎え、公孫サンや呂布・陶謙と同盟し、周瑜や陸康といった揚州名士にもコネクションを得ています。

袁紹や曹操と同様に、勢力拡大に努め天下に霸を争う姿勢を明確にしており、彼を英雄と呼ばないならば曹操や袁紹もまた英雄とは呼べなくなります。



袁術の失敗は皇帝になった事ではなく、その思想があまりに急進的(革命的)過ぎた事です。劉虞を擁立してワンクッション置こうとした袁紹(改革的)のような手法を取らず、自ら即位しましたが、配下の諸将を含めて理解し賛同した者が皆無だったために滅んだだけです。後漢の命脈がすでに尽きていたのは後の歴史を見れば明らかであり、袁術の思想が間違っていなかった事を証明しています。



袁術は紛れもなく英雄です。ただ、「早すぎた英雄」でした。時代の変革者はいつの時代も「少しだけ遅れてくる」のであり、後漢末はそれが曹操だったのです。








何万、何十万いや何百万といたであろう当時の中国人のなかで今でも名を残しているんですから、英雄と呼んでもおかしくは無いでしょう。そりゃ天下をとれなかったんですけど、それは結果論、劉備だって孫家だって天下をとれなかったんですから。物語では悪役になってますが、それは悪役を創らないとヒーローが目立ちませんから、実際はそれなりの家柄と力を持っていたんじゃないですかね。







一時期の袁術は曹操を圧倒しておりました。



幾多の英雄たちが天下の覇権を争ったのですから紛れも無く英雄の一人です。

漢王朝は有名無実です(将に革命として)新王朝を名乗っても不思議ではないでしょう。







実力も無いのに「皇帝」を名乗るから、バカ扱いされるのです。名門の袁家の名前だけで兵隊を集めたまではいいが、呂布や曹操、劉備にも破れた負け犬が皇帝を名乗る資格はありません。







英雄とは口が裂けても呼べません!ちょっと言いすぎかな?劉氏でもないのにしかも漢王朝の権威はまだ残っていたのに、皇帝を名乗るなんて自殺行為です。それができないから曹操は皇帝を補佐して権力をふるうという手段を選んだのに。はっきりいってただのバカです。

三國無双6をやっているんですが、馬岱って過去に何かあったんですか?

三國無双6をやっているんですが、馬岱って過去に何かあったんですか?

「孤独な俺を癒してくれてありがとう」とか

「実は暗いんだよねー」みたいな事言ってたんですが・・・

かなり気になります!!

いつも明るいのに、いきなり真面目な声で・・・一瞬誰!?って思ってびっくりしましたw

面白そうだから戦友にしたのに、なんかギャップにやられましたw

私だけじゃないですよね?やられた人w



あと郭嘉ってなんでいるのかわからないんですが・・・

出番少なすぎてガッカリですよね?





あと絆MAXになったら武将がなにげに告白しますよね

なんか違うゲームになってるwまぁ気分いいからよしとするwww

それで妻(または夫)がいるキャラでも君の事好きだよ(たぶん友としてだけど)

みたいな事言うんでしょうか?

とうたくとかも言うんですかね・・・寒気がwww





最後の質問です

私は今王元姫をつかっているんですが

敵武将に攻撃しても呂布みたいに普通に立っているんですけど

攻撃力をあげても普通に立ってるんですが

そういう武器なんですか?







>三國無双6をやっているんですが、馬岱って過去に何かあったんですか?



私も詳しくはないですが、馬超の父・馬騰が許都で殺害された時に同行していて、馬岱は命からがら西涼に戻ってきたとか…

馬岱の性格設定については、手元に本とかがないので詳しいことはわかりませんが、設定資料集とかには書いてあるかもね。

馬超が堅物で直情型で一直線ですから、補佐役の馬岱が空気を読んで道化を演じている、けれど実は正反対の性格で天邪鬼ってことじゃないかなーと。





>あと郭嘉ってなんでいるのかわからないんですが・・・

>出番少なすぎてガッカリですよね?



郭嘉は猛将伝という追加ディスクで追加されたキャラクターです。6では本編に絡めないおまけ的な存在ですから、王異やホウ徳などと同じように出番が限られてしまうのはしかたのないことです。

そもそも6は、ストーリーモードの仕様上、キャラクターの出番に差が出てしまいました。それをフォローするためのレジェンドモードなので、猛将伝からの追加キャラばかりにスポットはあてられなかったんじゃないかな。

次回作では出番は増えるでしょう。三国志の方でも、曹操に信頼されたすごい人ですしね。





>あと絆MAXになったら武将がなにげに告白しますよね

なんか違うゲームになってるwまぁ気分いいからよしとするwww



元からです。今に始まったことではありませんよ。

三国無双3猛将伝の頃から異性への告白ととれる台詞が存在します。4猛将伝にも、5Empiresにも、戦むそクロニクルにもありますから、通常運転。





>それで妻(または夫)がいるキャラでも君の事好きだよ(たぶん友としてだけど)みたいな事言うんでしょうか?



配偶者がいようが子供がいようが言います。

勿論董卓も言いますよ。3猛将伝の董卓の台詞は、いい感じだったんですけど、5からのキャラデザは人間やめちゃってますから…さすがにちょっと怖いですね 笑。





最後に、王元姫の武器(ヒョウ)について。

攻撃を受けて敵武将がのけぞったりすることを「ひるむ」とか言うんですけど、「呂布みたいに」、ということはその怯みがないということですよね。

この武器は攻撃力の強いものを使っていても、キャラの攻撃力を上げても「通常攻撃(□ボタンで出せる攻撃)」ではひるみません。

チャージ攻撃(△)だと敵将はひるみますから、チャージ攻撃を含めた立ち回り方をすればいいかと。

チャージ攻撃の使い方と印の選択次第で、不都合なく使える武器になると思います。








馬岱には発売日から散々ヤラレ撒くって今に至ってます・・OROCHI2が楽しみすぎて死にそうです。マジで。



馬岱は一族の中で残ったのが馬超とたった二人っきり(実際は馬超の死後官位?とかを継いだ息子の馬承が存在しますが)

で馬超はあの通りの直情型で、しかもなまじ強いもんだから放っておくと一人で突っ込んで行って死んでも曹操の首取りそうな人。

だから馬岱は自分の悲しいのとか辛いのとかは全部押し殺して道化なんですよ。

自分がいつも明るく、くだらない態度でも見せてれば馬超も思い詰めなくて済むだろう、そんな感じですかね

でもそれを真に理解してくれる人も、何もかも素直に話せる相手はない



そういう意味で孤独であり、心には暗いところもあるのだと自分は思ってます。

そもそもピエロって顔に涙のペイントしますよねーおどけて人を笑わせてるのに中に悲しみを持つという意味で。

馬岱はまさにそれなんですね



絆MAXになると結構色々言いますが、やっぱり武将の性格は反映されたものにとどまってたような・・





王元姫はよく分かりません;

三国志時代に出てくる異民族の名前、位置などを教えてください。 詳しく、誰がど...

三国志時代に出てくる異民族の名前、位置などを教えてください。



詳しく、誰がどの辺りに侵攻した。など教えてくれると嬉しいです







◇匈奴

匈奴は、衛青・霍去病との度重なる合戦で勢力が衰退し、後に内紛が発生して南北に分裂します。建安二十五年(西暦二一六年)、南匈奴の呼厨泉が配下を引連れて魏王国へ来朝し、曹操は彼等を厚遇します。



◇烏桓

烏桓は、匈奴に替って勢力を拡大し、支那北部へ度々侵入します。中平三年(西暦一八七年)、中山太守張純が烏桓と連帯して青州・徐州・幽州・冀州へ侵入します。中平五年(西暦一八八年)、幽州牧に任命した劉虞は、其の張純を討伐します。

烏桓・鮮卑の中で暮らして頭角を現した閻柔は、建安五年(西暦二〇〇年)に曹操へ使者を送って従臣し、建安十年(西暦二〇五年)に配下の烏桓・鮮卑を引連れて曹操の許に参上します。後に曹操は、幽州・并州で閻柔が統率する烏桓を内地へ移住させ、烏桓兵を自軍へ編入します。



◇鮮卑

鮮卑は、烏桓と同様に支那北部へ度々侵入します。建安十六年(西暦二一一年)、鮮卑内で勢力を拡大させた軻比能は、閻柔に味方し、叛乱を起こした田銀討伐に協力します。が、建安二十三年(西暦二一八年)、軻比能は背いて支那へ侵入攻します。曹操は息子曹彰を派遣し、此れを撃退します。

太和五年・建興九年(西暦二三一年)、諸葛亮が第三次北伐で軻比能へ出兵を要請します。軻比能は、要請に呼応して郡石城へ進出しますが、其れ以上の積極的な行動を見せずに撤退します。



◇羌

光和八年(西暦一八四年)、黄巾の乱が発生して支那が大混乱に陥ると、羌を含めた中原北西部の異民族が動き出します。同年、羌の部族先零羌と盗賊が連帯し、涼州へ侵入します。



◇山越

山越は、現代の江蘇省南部・安徽省南部・浙江省北部、長江下流南岸の山間部に散在した少数民族です。歴史書『三國志』の『呉書』に伝が有る将軍は、粗総て一度は山越討伐を経験しています。特に賀齊は、粗一生を山越討伐に捧げます。後に山越は、諸葛恪の巧妙な処置で帰順します。



◇西南夷

西南夷は、南中と呼ばれた益州南部、現代の貴州省西部・雲南省の山間部で国家を形成した各部族の総称です。建興元年(西暦二二三年)、劉備崩御を知った西南夷が一斉に蜂起します。建興三年(西暦二二五年)、諸葛亮が南征して西南夷の蜂起を鎮圧します。








武都にはテイ族や羌族についての記述が見られますし、蜀の南部では蛮族があります。

レッドクリフ1・2を見ました。映画では、赤壁の戦いでシュウユ・リュウビ軍が勝っ...

レッドクリフ1・2を見ました。映画では、赤壁の戦いでシュウユ・リュウビ軍が勝ったっぽいですが、実際はどんな結末だったのでしょうか!?そしてソウソウはあの戦いの後どうなったのでしょうか!?







先行の皆様のご回答には、いずれも小説『三国志演義』の影響が見受けられますね。私は正史『三國志』から回答致しましょう。



208年7月、曹操は荊州の劉表を攻めるべく、軍を発して南下を開始しました。

しかし翌8月、荊州の劉表は病死し、後を継いだ次男の劉ソウ[王宗]は9月、戦わずに曹操に恭順する事を決定します。

曹操は荊州のほぼ全土を支配下におさめ、旧劉表配下の処遇や荊州各郡の太守配置など人事を一通りすませてから11月に孫権に対して降伏勧告の手紙を送ります。



劉備は劉表死後も荊州の新野に駐屯していましたが、9月に荊州が降伏した事を知らされず、曹操軍が目前に迫って初めて気付きます。

慌てて南下して江陵に逃れようとしますが、物資の集積地である江陵を押さえられるのを嫌った曹操が軽騎兵を急派して劉備軍を打ち破り、劉備は船で東(揚州)との境界に近い夏口に逃げ延びます。

劉備は諸葛亮の進言で孫権に救援要請する事を決断し、諸葛亮を呉に派遣します。折しも劉表の病死と曹操の南下を受けて劉備の動向を気にしていた孫権配下の魯粛が荊州にやって来ており(名目は劉表の弔問)、諸葛亮を伴って呉に戻ります。



呉では群臣の多くが曹操への恭順に傾き孫権も迷っていましたが、諸葛亮は「劉備は曹操に屈しない」と明言し、魯粛は「外事は周瑜に相談すべき」と説き、周瑜は曹操軍の不利と自軍の有利を極めて的確に分析し「3万あれば必ず曹操軍を打ち破る」と宣言します。



こうして孫権は開戦を決断し程普と周瑜に3万の軍を授け、それを受けて曹操も烏林まで軍を進めます。

緒戦で周瑜の水軍に敗れた曹操は烏林北岸に軍を留め、戦況は膠着します。これを打開すべく黄蓋は火計を進言し、その為に曹操へ偽りの降伏を打診します。

曹操は最初疑いましたが、黄蓋と周瑜が不仲であり、黄蓋はむち打ちの刑を受けて重傷を負って恨んでいる事、呉の臣下も人民も曹操の徳を慕っており、周瑜と魯粛だけが意固地になっている事…などと伝える黄蓋の手紙を読み、黄蓋が遣わした使者を引見し細かく質問し、ついに信用します。

曹操は曹操で、緒戦の敗北や荊州降伏兵の加入で士気が上がらない事や、不慣れな風土で陣中に蔓延していた疫病に悩まされており、船を繋いで水上の揺れを軽減するなどの対策も効果なく撤退まで視野に入れていたところだったので、黄蓋の偽降を信用したくなったのも無理はありません。



そして約束の日、黄蓋は油を染み込ませた藁束を満載した高速船に火を放ち、曹操の繋いだままの船団に突っ込ませます。火は瞬く間に曹操の軍船を焼き払い、陸上の陣営までも延焼します。

曹操軍は焼死や溺死など多大な損害を出し、撤退するしかなくなりました。



ちなみに劉備は、夏口に逃れた時に約2000しか兵力をもっておらず、孫権の助力を得たものの勝ち目は薄いと考えていました。加えて周瑜が率いてきた3万を少なすぎると考え、周瑜が「後方でとくとご覧あれ」と勧めたのもあり後方に待機していました。

つまり、関羽・張飛・趙雲を含めてほとんど戦闘参加していません。また諸葛亮も劉孫同盟に貢献した後は特に何も記されてはおりません。



曹操は荊州の州都である襄陽や物資集積地である江陵に曹仁らを残し、自らは本隊を率いて荊州から一路北を目指します。周瑜・劉備らはそれを追いますが、江陵で曹仁に足止めをくらい、徐晃・李通らが曹仁の援軍として次々に投入された事もあって、約1年にも及ぶ激戦を戦う事になります。

曹操は3月にはショウ[言焦]へと無事に帰還を果たしました。

また劉備は周瑜ら呉軍と別れて荊州南方の征討へと向かい、長沙・桂陽・零陵・武陵と次々に陥落させ、徐州失陥以来久々に独自の根拠地を得る事となります。

孫権はこれを不満を持ちましたが、反曹操としての劉備を必要と考えた魯粛の進言により、劉備の荊南支配を認めます。



周瑜は最終的に曹仁を敗走させ宛など一部を除いた荊州北部の制圧に成功しますが、戦いのさなかに重傷を負い、その治療もそこそこに益州攻略を計画しますが、結局負傷が癒えず他界してしまいます。



以上、赤壁の戦い前後の大まかな流れです。

魏書太祖武帝紀(曹操伝)

蜀書先主伝(劉備伝)

呉書周瑜伝

呉書黄蓋伝

などを参考にしました。










曹操はわずかな部下とともに逃げますが

途中で劉備軍の攻撃や難行軍で次々兵を失い

ぼろぼろになりながら曹仁の城までたどり着きます。

その後さらにわずかな兵とともに許都?へ帰ったそうです。その間に

劉備がけいしゅうを奪います。







実際も劉備・孫権が勝ち、その逃げる道で劉備の部下たちが待ち受けていて曹操のわずかな兵は粉々に粉砕されますが、いろいろあってなんとか助かります。



それから南下をやめます(延期)。

そのあと勢力を盛り返してまた何度も攻めてきます。





正史はあまり読んでませんでした。

なのに知ったかしてすいません。







http://mwkp.fresheye.com/mb/m.php/%e4%b8%89%e5%9b%bd%e5%bf%97?from=...

旦那曰く、あれは妙な脚色ありすぎでレッドグリフは微妙だそうです。

確かに派手な部分ではありますが、嘘の脚色で綺麗にしすぎな上に、尻切れとんぼ状態で歯がゆいらしいですよ。







赤壁の戦いで曹操をやぶったが

その後劉備わ曹操を追撃したが

にげられ

孫権わ曹操の逃げた

合肥をせめた

テレ東で日曜の朝にやってる日中合作の三国志について

テレ東で日曜の朝にやってる日中合作の三国志について

あのアニメのOPで「日本は卑弥呼の時代」というですが、それって『日本はまだそんな大昔なのに中国じゃこんな熱い話やってたんだぜ、中国ってすげーだろ』と言いたいのか、あるいは話の後のほうで『倭の卑弥呼が三国志に絡んでくる伏線(FC版転地を喰らう2みたいに)』なのか、どちらだと思われますか?







説明の為でしょ。

正直申しますと卑弥呼が魏に朝貢したのは239年で、遣使したのは243年、三國誌の中でも末期の末期です。

赤壁もとっくに終わっており、劉備も関羽や張飛などの五虎将も諸葛亮も曹操もこの世に無く、孫権がかろうじて存命してるだけです。

その頃の日本については後漢書東夷伝に金印を授けたとか、それ以前は漢書地理史に「海の向こうに島国があるぞ」と記述されてる程度ですからね。

魏志倭人伝で卑弥呼の事が書かれてます。

ですので、いかにも日本と日本人の事が書かれてると思いがちですが、実は「烏丸鮮卑東夷伝倭人条」の略で、烏丸も鮮卑も三國誌で言えば異民族で有名な所では山越や南蛮と同じ扱いと。

まあ、親魏倭王の金印(仮)と銅鏡100枚くれたのは異民族への扱いとしては異例中の異例と言えなくはないですが。



ですので、あの頃は中国が日本よりず~っと進んでたのは間違いなく、今更ふんぞり返っていばる程のモンじゃありません。

また、三國誌としても卑弥呼は何の役割もしてませんし、登場が遅すぎて絡むにしても盛り上がりません。

なんせ、主役級はいないのですから。



それで、日本史においてマトモな記録が残ってる大和朝廷という近代国家、統一(?)国家が出来るのは200年以上先の話。

それ以前の話は殆どありません。

ですので、解りやすく説明するには、かろうじて関わりのある卑弥呼の時代と言うしかないからでしょう。



でも何かのゲームでありましたね。

殿様だったか武将の嫁候補に卑弥呼が入ってたやつ。








正史の三国志の中に魏志倭人伝(正式名称 魏書東夷伝倭人条)という項目があります。三国時代の周辺諸国について記載されたもののうち、日本について書かれてます。当時は卑弥呼がいたという歴史的事実がその史書にも出てきます。



日本で放送されることを前提にその紹介がなされていると考えられます。その方が、視聴者には時代を捕らえやすいからです。

そういう意味合いと、史書にも出てくる事実の両方が含まれてるのでしょう。

後の展開への伏線ではないような気がします。







あのセリフは日本向けにあるんじゃないでしょうか?従って、大体どれ位の時代かをわかるように言ってるんだと思います。三国志好きですが、しかし めっさおもんないですよねー。あの張遼にはガックシ。

袁紹の病症について

袁紹の病症について

最後まで後継者を決めずに病死した袁紹ですが

当時の彼には後継者を誰にするか考え、決定する余力はあったのでしょうか?



『袁紹は失意の内に病死した』という事は良く聞きますが、

『袁紹の病症』についてはあまり聞きません。



当時の袁紹の病症は

苦しくても、相手と会話する事に問題はないものだったのか。

それとも後継者はおろか、

自分の意思を相手に伝える事が出来ない程、酷いものだったのか





どうかよろしくお願いします。







正史『三國志』には、袁紹がどんな病気だったか書かれていないので推測するしかありませんが、恐らくは急死だったのだと思います。



袁紹は健在のうちから三男の袁尚を可愛がり、ゆくゆくは彼に後継を任せるつもりだったであろう事が、魏書袁紹伝からうかがえます。また裴松之の注に引かれた審配の書簡には、長男の袁譚が家を出て、死亡した袁紹の兄弟の家督を継いだと思わせる一節があります。

であるならば、袁紹の後継は袁尚であると、配下の大多数が考えていたはずです。家督争いもなくすんなり決まっても良さそうなものです。



しかし袁紹は正式に袁尚を後継しないまま没しました。

袁尚を推す重臣達が早速袁尚を後継に立てようと動き出しますが、これと対立していた重臣達は長男の袁譚を担ぎます。袁尚も袁譚もその気になって互いに譲らなかったので、旧袁紹陣営は二分され、曹操に各個撃破されてしまいました。



ただし、正史『三國志』に書かれている袁紹の死が「失意の病死」でしかなく、闘病の期間も特になく死の直前ごろまで反乱鎮圧に駆け回っている事などを考えると、色々と裏読みができそうです。

例えば遺書を記して後継を定めたものの、袁譚派あるいは袁尚派に握り潰された…とか、本当は袁尚を指名していたが袁譚派が納得せず反乱に及んだ…とか。



まあ、普通に考えれば袁尚を後継に選んでいたのだと思いますけどね。袁尚は一貫して本拠地であるギョウ[業β]を押さえていますし、軟弱と嫌われて後継になれなかった次男の袁熙は袁尚に従っていますし。

単純に、袁尚を後継とした事実が後世に伝わっていないだけのように思います。

于吉は実在したんですか?

于吉は実在したんですか?

呉の人々から尊敬されていた于吉仙人についての質問ですが、

孫策に雨乞を命じられて雨を降らせたにもかかわらず、

孫策に殺されてしまいました。

しかしその後、孫策は于吉の亡霊に取り付かれて死んだことになっています。



もちろん仙人なんて能力のあるものがこの世に存在することはありませんよね、

だとしたら于吉はどうやって雨乞で雨を降らせられたのか?

そもそも于吉が実在していたのか疑問です。



ですが于吉がいなければ一国の主だった孫策の本当の死因は何だったんでしょうか?







三國志・呉書・孫破虜討逆伝(孫堅と孫策の伝)



孫策の伝の裴松之の注で

『江表伝』『捜神記』を資料にして出てきます。本伝には記載なし。

『江表伝』は現存しませんが『捜神記』はその書名で現存します。



『三国志演義』の話は『捜神記』を元ネタにしています。



当時、呉郡太守の許貢が、曹操宛てに「孫策は項羽のような人物なので警戒せよ」

と手紙を送ろうとしたが、孫策側に見つかり殺される事件が起こります。

許貢の子供や食客(私的家来)に暗殺されます。その場で討ち取られた訳ではなく

その後になくなったのです。当然『演義』にも出てくる話です。



その間の話として『江表伝』『捜神記』の于吉の話が注として盛り込まれ、『捜神記』の

話が『三国志演義』に用いられる事になります。

△三国志-本当の華佗さんが知りたい

△三国志-本当の華佗さんが知りたい

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最近、気になってしょうがない人がいます。

それは、華佗(かだ、? - 208年)です。



<華佗>

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%AF%E4%BD%97



『三国志演義』の華佗さんは瞬間移動したり、

(瞬間移動すればいいのに)逃亡の際、羊に化けてかく乱したりしますよね。

このあたりは、演義なのでよいのですが、問題は、『三國志』です。



『三國志』では、軍の役人の18年後の病状を言い当てたり、

荀彧を遠めで見ただけで、その顔色から病名を言い当てたり、

現代医学を凌駕している気がします。



私の認識では、『三國志』=事実だと思っているのですが、

事実だとすると、華佗さんは神の使いかと思えてしまいます。

それに、華佗さんの医術がそれ以降の弟子達に伝承されていないことも気になります。



この認識自体に誤りがあるのでしょうか。

そのあたりに詳しい方、ご教示お願い致します。







正史の魏書の華佗の記載が、方技伝第二十九の筆頭にあり、かなりのページ数も割いていることからも、

この時代を代表するスーパードクターだったことは間違いないんじゃないでしょうか。

数々の神技的治療例が正史に見られますが、

腹から虫が出たり、蛇がでたりするのは、あきらかに寄生虫ですし、

そのころの衛生状態からして原生虫が原因で死ぬ確立が高かったのではと予想されます。

ここからは私の推測ですが、麻沸散(麻酔薬)を飲まして手術を繰り返し、体内の様子を把握して(そりゃ失敗もして死亡させたりはしたでしょうが・・・。)原因を突き止たり、死んだ人間を解剖したりして腕を磨いたんじゃないでしょうか。

(今の外科医も、手術の回数を増やしながら、名医になっていくんですから・・・。)

死んだ状況を細密に観察する能力に長けていたのではないでしょうか。

眩暈がするとかいうのも多分貧血でしょうし、膝にはれものがあるなんてのも、脚気の一種かも知れません。

そういう症状も、数多くの患者を診て、華佗さんは理解してたんでしょうね。

そんなスーパードクターも、さすがに曹操の頭痛(脳腫瘍だろうと言われていますが。)は手に負えなかったでしょう。

演義では、開頭手術しかないと診断して投獄されますが、

正史では、曹操の出頭命令を無視して投獄されています。匙を投げたんでしょう。それも立派な診察といえましょう。

演義では、死ぬ前に獄史に秘伝書を渡しますが奥さんに「こんなもの持っててもろくな事にならない。」と焼かれてしまいますが、

正史では、獄史に受け取りさえ拒否され、自ら焼いてしまいます。

でも、正史では、広陵の呉普が治療方法を習い、太極拳のような気を巡らす動き(体操)を実践して90歳以上長生きしましたし、彭城の樊阿は、針術を習い治療を善くしたとの記述があります。

華佗の医術は、とりあえず継承されたみたいですね。



《追記》

●太極拳の五禽戯(虎.鹿.熊.猿.鳥)は、華佗が考案したらしいですね。

ジャッキーチェンの初期の映画「蛇拳」だったか「酔拳」だったかに出てきますよね。

●正月に飲む御屠蘇も、華佗が処方したといわれる屠蘇散という漢方薬を酒に入れて飲むのが正式らしいですね。

私は酒が飲めないので、これからも飲む機会は有りそうにありません。

●脳卒中の後遺症治療薬に、「華佗再造丸」てのが有ります。

曹操の頭痛は治せなかったけど、脳の後遺症の治療薬に名前を使われるなんてチョット皮肉ですね。

●マンガ「中国医学の歴史」って本にも華佗は、神農.黄帝.扁鵲.張仲景などの名医とともに主役を張ってます。

漢方薬や鍼灸の歴史がわかり易く載ってます。








仙術を使うのは左慈、医術のほうは華佗です。



まあどっちも「後漢書」方仙伝に載ってる人物ですが・・・。後漢書が書かれた南北朝時代は、長い戦乱で「桃源郷(ユートピア)」に対する憧れが強かったんですね。汚れた俗世から抜け出て、仙界に遊びたい・・・という。陶淵明が「桃下源記」を書いたのもこの頃です。

ですから、他の正史には見られない、非常識な伝説的人物の伝記が載っていて、小説「三国演義」でも、面白いので使われているんです。



華佗は世界で初めて、「麻酔を使った外科手術」を行なった医者といわれています。

麻酔で眠らせておいてから、開腹し、病気になった臓器を切除したり、薬で洗ったりした・・・と記録されています。(このほか、虫下しを飲ませたら、とんでもなく長い虫が出て来て、華佗の家にはそういう虫の干からびたのが何匹も吊ってあった、などという気色の悪い話も載っています)

華佗は曹操のかかり付け医だったのですが、「曹操が自分を医者としか認めてくれない」ことに腹を立て、曹操の呼び出しを無視して、曹操に処刑されたということです。華佗は士大夫として、政治で活躍したい、という希望があったんですね。

「演義」では、周泰の手術をしたり、関羽のひじを治したりしていますが、これらはフィクションです。

「方仙伝」の人物(スーパー占い師・管路もそうですが)は、あんまり怪しくて実在を余り論じられていません。



ただ、江戸時代の華岡青洲が麻酔手術を目指したのは、「今から2000年も前の華佗が、すでに成功してるじゃないか」と言うきっかけであったそうです。

華佗が処刑された後、弟子たちは世に隠れて、「針の名人」ハンアくらいしか名を知られていないのです。







華佗と左慈が混同しています。

前半の記述の瞬間移動やかく乱は左慈のことです。

医術に関しては華佗のことになります。

三国志の事をもっと詳しく知りたいのですが、いい著書があったら教えて下さい。 三...

三国志の事をもっと詳しく知りたいのですが、いい著書があったら教えて下さい。

三國志全体ではなく、一部の時期のみのものでも構いません(例えば赤壁など)

村上知行訳の完訳三國志は読みました。

軍師が好きなのでそれにスポットを当てた作品だとなお嬉しいです。一番好きなのは諸葛亮ですが、最近は李儒について知りたい事が増えてきましたので、彼の活躍などがあったら嬉しいかと(正史ではほとんど記述がないと聞きましたが)。あとは徐庶、郭嘉、ホウ統、法正など。

蜀贔屓なわけではないのですが(笑)



上記に構わずオススメのものがあったら教えていただけると嬉しいです。







軍師がお好きということなので、



単独の小説としては、

『諸葛孔明』陳舜臣(中公文庫)全2巻

陳さんの小説はどれも面白いですが、この諸葛孔明も名文ですね。

安心して読めます。



『諸葛孔明』狩野直禎(PHP文庫)

まずまずですかね。



『荀彧』風野真知雄(PHP文庫)

荀彧なくして曹操なしです。



『龐統』立石優(PHP文庫)

遅れてきた天才軍師というところでしょうか。



『陸遜』太左順(PHP文庫)

「武」もいけて「知」もある、なんでもこいですね。

あと10年早く生まれていれば、「呉」の躍進もあったかも・・。



外伝として短編ですが・・。



『三国志外伝』三好徹(光文社文庫)

結構、マニュアックな人選です。

甄氏.孔融.臧子源.許靖.虞翻.

荀彧.夏侯月姫.諸葛瑾.賈詡.楊修.

孟達.張温.龐徳.馬謖.諸葛恪.曹植

よだれが出そうなメンバーですね。

1人30ページくらいですが、気楽に読めますよ。



『三国志傑物伝』三好徹(光文社文庫)

これまたマニュアック。

上記の外伝と被らないのが、またナイスチョイス。



『三国志軍師34選』渡邉義浩(PHP文庫)

34人の軍師級の人物伝です。

1人10ページほどですから、通勤の途中にでも気軽にどうぞ・・。








旦那曰く、「世の男は横山光輝の三国志の洗礼を受ける」そうです。

村上さんの読んだんですか?すごいですね。私は途中で主語と述語がわからなくなってきて、相関図を作らないとやっていけなくなりました。

とりあえずまだならマンガ三国志いかがでしょう。

アニメ三国志もありますよ。

中国歴史上の君主もしくはリーダークラスの人物でベスト10にはだれがはいります...

中国歴史上の君主もしくはリーダークラスの人物でベスト10にはだれがはいりますか?

三國志の曹操はどうでしょうか?








こういうランキングは、なかなかに意見が分かれますね。



民衆目線で善政を敷いた人、偉業を果たしたものの敵・味方も虐殺しまくった人、

悪政しか敷いてなくとも儒者など当時のメディア関係者に賛美させた人も

ひっくるめて名君扱いされている事が多いので。



では私は、民衆目線で善政を敷いた人をメインに選考させていただきましょう。



1.劉秀

(『後漢書』の内容通りなら20からの群雄に完全勝利、かつ幼馴染を

皇后に。2代目も優秀。異民族戦も南匈奴、鮮卑、烏桓、西羌、高句麗を

内属させ、融和政策を敷くのに成功。

なのに唯一の汚点の西域進出できなかった~部分を後世延々となじられている人。

当時の西域には、莎車王・賢というチート王がいて困難だった事はよく省略されてる)



2.李世民

(劉秀の雲台二十八将を真似た、凌煙閣二十四功臣を率いて唐王朝を建国。

ただ、玄武門の変での兄弟殺し。高句麗戦での敗北。後継者選びの失敗など

画竜点睛を欠く)



3.趙匡胤

(三国志の関羽の武聖認定に関わっている、北宋の建国者。『飛龍伝』という

武侠小説が作られるほど、弱気を助け、強きをくじく義人。功臣粛清をしなかった

上に。乗っ取る形になった元主君の家系を厚く保護した。文治政策でも有名)



4.康熙帝

(清王朝の基盤を築いた優秀な2代目皇帝。初代が討ち漏らした明王朝の

残存勢力。台湾勢力を打倒し併合。全国の土地の測量図「皇與全図」、

「全唐詩」、「康熙字典」の編纂など武のみならず。文化事業にも力を入れた)



5.劉邦

(農民から皇帝へのチャイナドリームを体現した人物。ライバルの項羽のおかげで

戦下手の印象が強いものの。軍人皇帝の中では上位クラスの能力はあると思う。

ただ、子供を投げ捨てたり、家庭を顧みなかったゆえに、のちに呂氏の簒奪劇を招くなど。

公人としては優秀なものの、私人としては困った人)



6.朱元璋

(貧民から皇帝になったチャイナドリーム2号。三国志の蜀漢は失敗した、南部から

北部に攻め上がるという離れ業で天下を統一し。農民に善政を敷いた。

「一人で聖賢、豪傑、盗賊を兼ねる」と評価されるほど、善人・悪人の顔の使い分け

が激しく。晩年は国が傾く程の功臣粛清に走ったり。功臣の妻子を売春宿に

売りとばしたり。敵と見なした相手に容赦しなさすぎる)



7.始皇帝

(歴代の秦王たちのバトンを引き継ぎ天下統一。皇帝事業のひな型を作ったものの。

焚書坑儒などの蛮行多し。不幸な生い立ちに同情はできるけど…)



8.楊堅

(隋王朝の初代皇帝。科挙の採用といい。すんなり天下統一を果たした辺り、

優秀なのに影薄い)



9.漢の文帝

(2代目から暗礁に乗りかけた前漢王朝を立て直し。財政を豊かに発展させた

名君。

武帝の方が有名だけど『漢武故事』にある、人材の才能を愛する代わり。

飽きただけで粛清を繰り返してた辺り、私は名君とはとても…。匈奴対策でも

人口激減させるし、財政を空にさせるし。西域の王族のチンコ切るし)



10.劉裕

(南朝の宋の初代皇帝。貧しい家に生まれ、軍人の身分から皇帝に成り上がった

人物。



後漢書の作者・范曄と三国志の注釈を行った裴松之、陶淵明が仕えていた。現代

これらが読めるのは彼のおかげという事でランクイン)



曹操は、18位でしょうか。

裕福な家の出身。天下統一に至らなかった点、虐殺を行った点

が差し引かれますね。



有名だけど除外



チンギス・ハン。

中国人じゃなくモンゴル人だし。各地の蛮行が酷すぎる。政治の概念があったかも疑問。








周の文王に武王。春秋五覇の斉の桓公、晋の文公、秦の穆公、楚の荘王。残る一人は諸説ありますが、宋の襄王、呉の闔閭、越の勾践である。ちなみに、全て覇者の条件を満たしているのは、斉の桓公と晋の文公だけ。八百年も続いた中国史上最長の周王朝を打倒した秦の始皇帝。曹操は聖人・孔子の直系を跡絶えさせましたから、どうしても僕の評価は上がりません。当時は現代ほど孔子の教えは、高い評価を得ていなかった事を加味してみても・・・残念。







漢民族(異民族系は含む)だけでも

李世民、始皇帝、劉邦、劉秀、朱元璋、趙匡胤、永楽帝は確定で、残り三枠を

柴栄、趙光義、宣徳帝、漢の文帝、漢の武帝、楊堅なんかと争う訳ですので厳しいと思います。







1.李世民 (史書の記述が本当なら)

2.始皇帝 (良くも悪くも、その後の王朝の見本となった)

3.劉邦 (人を引き付ける魅力、優秀な部下を使いこなす能力は高く評価できる)

4.チンギス・ハン (強引だけど大帝国を作り上げた手腕は見事)

5.朱元璋 (明王朝成立後の粛清はいただけないが、農民から皇帝になったのはすごい)

6.趙匡胤 (唐崩壊後の混乱を終わらせた)

7.漢宣帝 (武帝の遠征で疲弊した財政を立て直した庶民出身の皇帝)

8.武則天 (唐王朝の全盛期を実現、支配層には嫌われたが庶民に人気があった)

9.前秦苻堅 (単なる私の独断。淝水の戦いが勿体ない)

10.毛沢東 (一応、入れときます)



曹操は20番目くらいでしょうか。。。。

三國志の質問ですが 劉備は君主としての力量は中国歴史上のリーダーの中でどのくら...

三國志の質問ですが

劉備は君主としての力量は中国歴史上のリーダーの中でどのくらいの順位というか格付けするとしたらどのくらいなんでしょうか?


総合的にみてどうなんでしょうか?中国歴史上で相対的に比較したらそんなにたいした人物ではないのですか?いまいち劉備をどう評価したらいいのかわからないのでよろしくお願いします。







ん~、100位圏外ですね(キッパリ)。



君主としてでしょ?なら221年に即位して223年に崩御するまでのわずか3年未満の評価になりますから、その間に何したかっていうと…総力を挙げて他国に攻め込んでフルボッコにされただけですわ(爆笑)。

漢中王即位(219年)から数えたとしても4年弱。実績のほどはほとんど変わりません。

(漢中攻略の成功をもって漢中王即位なので、曹操に勝ったのはノーカウント)

あ、219年からだと呉との国交断絶が入ってくるから…余計評価が下がるな( ̄∀ ̄;



そうでなくて、質問者さんの聞きたいのは「劉備の群雄(リーダー)としての評価」ですかね?まあそっちも大して変わりませんけど(笑)。

50歳手前まで泣かず飛ばずで逃げ足だけで生き残ったような人だし、確固たる勢力を拡げた訳でもなければ天下をうかがう攻勢をかけた訳でもない。

(赤壁は敵が攻めてきたための防衛戦闘)





プラスの評価などほとんど出来ないし、中国史上の広い括りで劉備以下のリーダー(君主)を探す方が難しいです。

どのぐらい難しいかって、曲がりなりにも39年国を治めた息子の劉禅の方が上になっちゃうぐらいです(爆)。

まあ劉禅は「群雄」としても「武将(個人)」としても全く評価できませんけどね。皇帝ってだけなら劉備以上なのは間違いないです。



もちろん、これは劉備の能力や人生を否定するものではないですよ?あくまでも「人の上に立つリーダー(統率者)」としての実績のみの評価になります。



【追記】

それはそれでいいのでは?裸一貫から成り上がったのは間違いないし、立志伝中の人物である事に間違いはないですから。

あの乱世を生き延びた百戦錬磨の将軍ですし、道を違えた幾人かを除けば部下にもほとんど裏切られない人物で、統率力もカリスマ性も備えています。

優れた人物に違いはありませんよ。








はっきり言って劉備より優れた君主かリーダークラスは沢山いるぜ!劉備はまあ格付けするなら下の上か中の下くらいだな。

よだんだが諸葛亮も中国四千年の歴史からみれば中の上くらいが妥当な評価だと思うぞ!







劉備の能力について曹操が部下(名前は忘れた)に尋ねた事があります。

その返答は「劉備は一地方を治めるだけの能力はあるが、天下を治めるとなると役不足だと思う」というようなものでした。

平民から三国の一つである蜀の皇帝になったくらいですから凡庸な筈はありませんが、丁度その程度のレベルだったのでしょう。

ですから中国史上のリーダークラスから比較すると大した人物ではないと思います。



人物評価の虚実>過小・地味な評価された人物>劉備玄徳

http://www.geocities.co.jp/Technopolis-Jupiter/1750/gunji.html#ryuu...

曹操が矢がたりない時、馬上にわら人形を置き敵に矢を撃たせ調達したこと があると...

曹操が矢がたりない時、馬上にわら人形を置き敵に矢を撃たせ調達したこと

があると聞きました

でも さすがにわらと人は間違えないでしょうし

馬にも矢が刺さるでしょ

と思ったわけです

誰かこの矛盾? 疑問に答えられる方はいませんか







知恵袋などで時々見かける話ですが、出典が分かりません。『三国志演義』ですら見た事ないので、おそらく後世の三国志系作品の架空のエピソードかと思います。



元ネタになったと思われるのは『三国志演義』の赤壁の戦いでの、諸葛亮が周瑜に「7日で10万本の矢を用意して欲しい」と言われ、霧の中を藁束&藁人形を満載した船で曹操の陣に近づいて、10万本以上の矢を射かけさせた…というエピソードでしょうか。



ただし、実はこれすらも『三国志演義』の架空のエピソード。元ネタとなったのは、陳寿の正史『三國志』呉書呉主伝に引く裴松之の『魏略』からの注釈です。

それによると、建安18(212)年正月、曹操が濡須を攻めた時の事。孫権が船で敵情偵察に出てきたため、曹操は弓・弩をめったやたらに射かけさせた。矢が船に突き刺さり、その重みで船が傾いて転覆しそうになったため、孫権は船を反転させて矢の刺さっていない舷側で新たに矢を受け、ちょうど重さが均等になり安定したところで引き上げた、とあります。



まあ正直な話、この『魏略』のエピソードはドラマチックに過ぎて事実ではないと思われます。

陳寿の本文では、曹操が濡須を攻め、孫権が防いで1ヶ月あまりも対峙し、曹操は孫権の軍に少しの乱れもないのに感嘆して軍を引いた…とあるのみです。



裴松之は『魏略』の前に『呉歴』を注に引いていますが、これによると緒戦で孫権が三千人余りも捕虜にする勝利をおさめ、以後曹操は挑発されても応戦しなかったため、孫権は自ら軽舟に乗って威力偵察を行います。

曹操軍の将兵はこれを挑発と考え攻撃しようとしますが、曹操は「みだりに弓・弩を発射してはならぬ」と制止し、孫権の舟の隊列が全く乱れないのに感嘆して「息子を持つなら孫仲謀のようなのが欲しい」という、有名なセリフを口にしています。



『魏略』と『呉歴』で内容が正反対なのが面白いところですね。








もしかして曹操ではなく諸葛孔明の間違いでは?馬じゃなく船上ですが…。まあ、これとて創作ですがね。







それはウソですね。

そんな作戦を取った人が

諸葛亮の船上の藁人形に矢を打たせるような策に引っ掛かる訳ないじゃないじゃないですか。







諸葛亮が船上の藁人形に曹操軍から矢を打たせて調達した、という話なら聞いたことありますが……。



この時は濃霧で人影にしか見えなかった事と、船底に水夫がいて操船したので無事だった、という内容だったと思います。

三国志の曹操についての質問です。 曹操の息子&娘は全員で何人くらいいましたか?

三国志の曹操についての質問です。



曹操の息子&娘は全員で何人くらいいましたか?

できれば全員の名前などを一覧化してほしいです(無理なら大体の人数だけでいいです)。



今まで曹昂、曹丕 、曹彰、曹植、曹熊、曹沖くらいだと思ってたのですがたくさんいると聞きました。



またそんなに子供がいるのは珍しい方ですか?



劉備などは数人だと思うのですが・・・



また上にあげた6人の生まれた順も一応教えてください。







曹操の子は名前が判明している男子だけでも25人います。女子は判明しているだけで6人。また夫人は判明しているだけでも14人います。

曹操の子は全員生年が分かっている訳ではないので、夫人ごとにまとめてみますね。



・劉夫人

清河公主(夏侯楙の妻)

曹昂(?~197)

曹鑠



・丁夫人

子なし。



・卞皇后

曹丕(子桓、187~226)

曹彰(子文、?~223)

曹植(子建、192~232)

曹熊



・孫姫

曹上

曹彪(朱虎、196?~251)

曹勤



・環夫人

曹沖(196~208)

曹拠

曹宇(曹奐の父)



・杜夫人

曹林(?~256)

曹袞(?~235)

金郷公主(何晏の妻)



・秦夫人

曹ケン[王玄]

曹峻(?~259)



・尹夫人

曹矩



・王昭儀(陳氏?)

曹幹(215?~261)



・李姫

曹乗

曹整(?~218)

曹京



・周姫

曹均(?~219)



・劉姫

曹棘



・宋姫

曹徽(?~242)



・趙姫

曹茂



・母不明

安陽公主(荀イクの長子の荀ウンの妻)

曹憲

曹節(?~260)

曹華





男子は全て正史『三國志』魏書に伝が立てられています。

このうち曹熊、曹沖、曹ケン、曹矩、曹上、曹勤、曹乗、曹整、曹京、曹棘は夭折して子がおらず、曹鑠、曹均は早死にはしたものの子をもうけています。

また尹夫人は最初の夫である何進の息子との間に何晏を産んでいます。曹憲・曹節・曹華はいずれも献帝の後宮に入り、曹節は皇后に立てられています。



ちなみに曹操の子でもっとも年長なのは清河公主であり、そのため特に清河長公主と呼ばれます。なおWikipediaでは曹昂が嫡子であったかのような記述であり、確かに劉夫人は曹操の最初の妻で間違いはないですが、曹操の正妻は丁夫人、次いで卞皇后であり、正妻でない劉夫人の子の曹昂は嫡子ではありません。








転載ですがよろしければ



1.曹昂(豊愍王)母は劉夫人

本来家督を相続する長男であったが、若くして討ち死にした。

2.曹鑠(相殤王)母は劉夫人

病弱で、若くして死んだ。

3.曹丕 母は卞氏

初代魏皇帝(文帝)。卞氏の長男で、博覧強記で知られた。

4.曹彰 母は卞氏

とりわけ武勇に長け、曹操からは「黄鬚」とあだ名を付けられた。

5.曹植 母は卞氏

父や文帝以上に詩文に巧みで「詩聖」と呼ばれた。曹丕と後継者の座を争った。

6.曹熊 母は卞氏

病弱で、若くして死んだ。

7.曹彪(楚王)母は孫姫

司馬懿に対する王凌のクーデター計画で、次の皇帝として担ぎあげられたが、失敗して自害した。

8.曹沖 母は環夫人

少年期より才幹目覚ましく、曹操が最も寵愛した子であったが、病死した。

9.曹宇(燕王)母は環夫人

10.曹林(沛穆王)母は杜夫人

11.曹袞(中山恭王)母は杜夫人

12.曹據(彭城王)母は環夫人

13.曹矩 母は尹夫人。生没年、字は不明。子が無いまま、早くに死去したため、樊安公曹均の子曹敏が臨晋侯に封じられ、後を継いだ。232年、爵号を進められ、范陽閔王と諡された。

14.曹上 母は孫姫。生没年、字は不明。子が無いまま、早くに死去したため、後継ぎはなく、領国は没収された。231年、領国と諡号「臨邑殤公子」を追贈された。

15.曹勤 母は孫姫。生没年、字は不明。子が無いまま、早くに死去したため、後継ぎはなく、領国は没収された。231年、領国と諡号「剛殤公子」を追贈された。

16.曹玹 母は秦夫人。生没年、字は不明。211年に西郷侯に封じられたが、子が無いまま、早くに死去したため、215年、沛王曹林の子曹贊が爵位と領地を継いだ。232年、爵位を上げられ、諡号「済陽懐王」を追贈された。

17.曹峻(陳留恭王)母は秦夫人

18.曹幹 母は陳姫

19.曹乗(穀城殤公子)母は李姫

20.曹整(郿(郿は、眉に阝=おおざと)戴公子)母は李姫

21.曹京 母は李姫。生没年、字は不明。子が無いまま、早くに死去したため、後継ぎはなく、領国は没収された。231年、領国と諡号「霊殤公子」を追贈された。

22.曹均(樊安公)母は周姫

23.曹棘 母は劉姫。生没年、字は不明。子が無いまま、早くに死去したため、後継ぎはなく、領国は没収された。231年、領国と諡号「廣宗殤公子」を追贈された。

24.曹徽(東平霊王)母は宋姫

25.曹茂(楽陵王)母は趙姫

女子 [編集]清河長公主(夏侯楙夫人、母は劉夫人)

安陽公主(荀彧の長子・荀惲の妻)

曹憲(献帝の貴人)

曹節(献穆皇后、山陽公夫人)

曹華(献帝の貴人)

金郷公主(何晏夫人、母は杜夫人)



従子・族子 [編集]甥もしくは曹操より一世代下の親族



曹安民

曹休

曹真

夏侯楙

夏侯覇

夏侯威

夏侯尚



従兄弟 [編集]いとこもしくは同世代の親族



夏侯惇

夏侯淵

曹洪

曹仁

曹純

戯志才ですが、諱も字も志才って考えられませんかね?孟浩然みたいに。荀イク伝と...

戯志才ですが、諱も字も志才って考えられませんかね?孟浩然みたいに。荀イク伝と曹操の発言との矛盾を指摘されて思いつきました。







諱と字が同じ人物というのは確かに居ますよね。

しかし、戯志才がそうであったかと言えば違うだろうと考えています。



三國時代の人物の諱と字を抜き出してみれば分かりますが、いくつか法則性があります。兄弟順の表示(伯仲叔季)、同じ文字を使う(司馬八達や夏侯七権など)、諱と字義の同一性(諸葛亮、徐晃など)、諱と字義の対照性(呂蒙など)です。



つまり三國時代の字は、諱を補完するもの、あるいはその人物を説明するものであると考えます。例外は曹操、荀イク(ともに過去の書物の一節から)など少数です。

一方、孟浩然を始めとして後世の人物には、諱と字が同じという人物が散見されます。これは私見ですが、字という文化の爛熟と退廃ではないかと考えています。



字というものは本来、諱をみだりに呼ばなくてもいいように付けられたもの。諱を隠すための名前が字であったはずです。諱と字を同じにしてしまうのは本来的な意味を失う事になります。

にも関わらず諱と字が同一という人物が存在する。これは諱を避ける意識が薄れてきた結果ではないかと。

まあ有り体に言えば、使いもしない諱を考え、さらに意味や趣向を凝らした字をつける行為を無駄だと考える風潮みたいなものができてきたのではないかと、そう思う訳です。だって結局は日常的に諱を使用する事になりますからね。



つまり、三國時代はまだ真面目に諱と字を考えていた時代だと思っています。その考えが正しければ、諱と字を同じ文字にするというのはタブーだったはずで、戯志才も恐らく諱と字とで違う名前を持っていたと思われます。



一方でazarashikun1230さんのおっしゃる通り、もしかしたら戯志才には字が無かったという可能性もありますね。その場合は志才が諱となる訳ですが…、字面の印象だけだと正直、諱には見えません(^_^;

そもそも二字名は二字姓よりもさらに珍しいものですし、三國時代において二字名の例としては、私は無忌(伏無忌。伏完の祖父)と不疑(周不疑。劉磐の族子)しか知りません。



しかしまあ、単純で素朴な疑問のようでいて、いざ掘り下げると結構奥が深い問題ですねこれ(笑)。私自身回答していて非常に勉強になりますし、皆さんのご意見が聞けて良かったと思っています。










志才は諱と考えても差し支えないと思いますがまたもや突飛な意見かもしれませんがそもそも字がないのかもと私は個人的に思っています つまり字という習慣があまり浸透してない地域で出生したのではと思ってます

例えば先ほどの妄想から続きますが戯子然の縁者だとして出自が少々怪しい また三国志には字がない人物がいます 中国全土に字を呼ぶという習慣が及んでいなかったらと仮定してみては?

例えば華雄 袁紹配下の顔良に文醜 馬岱 孟獲や沙摩訶など彼等の内、華雄は不明ではあるが董卓配下ということから北方 顔良は徐州ということになってるみたいだが謎 文醜は不明ながら騎兵を率いることなどから北方ではないかと推測 馬岱は西涼後の二人は南蛮の出身です

又はそもそも戯志才とは虚名で別の名があるのか…



追記 しいて言えば中原には字という習慣は広まっていたがそれ以外では完全に広まっては居なかったとか

閻柔や公孫瓚は幽州出身で北方 麹義も羌族の戦法に習熟していたところから北方出身

こう仮説をたてればsanokuangxian様が先ほど戯志才が姓+名か姓+字か分からないという疑問も筋が通るかと思いますがどうでしょう?



補足 三國時代において二字名の例としては、私は無忌(伏無忌。伏完の祖父)と不疑(周不疑。劉磐の族子)しか知りません>ええとこれについて補足ですが実のところ古代中国では一字の諱が基本だったのですが同姓同名が続出したため次第に二字諱が現われるようになります ちなみにそれは前漢時代で特に増え例を挙げると八代皇帝昭帝は「劉弗陵」といいます そして王莽の復古政策である二名の禁のせいで新から西晋にかけて少なくなりますが別になくなったわけではありません

例を挙げると周不疑(才能豊かで曹操にも愛された しかし友人であった曹沖が死ねと曹操により殺されてしまった)

王延寿(王逸の子で字を文考 襄陽耆旧記に記載あり)

郭攸之と王子服?はどうだったかな? 鄭小同(字は子真 鄭玄の孫 高貴郷公の時代に五更に就いて活躍したが司馬昭とトラブルを起こし毒殺される)

司馬炎と同名のため字で記された孫叔然なんてのもいたかな



さらに追記 う~ん東晋の最後の皇帝恭帝で諱も字も徳文っていうのもいますしど忘れしましたが唐の将にも諱も字も同じのがいたと記憶してます しかしkanshinshunjyu様がおっしゃるように諱を隠すための名前が字であったはずであるからそんなにはいないはずですね ただ全体的に諱を避ける意識が薄れてきたというのはちょっと考えづらいかなと後世にイレギュラーが出るようになったという意味では確かに薄くなったとは思いますし現在の中国では字の公用を廃止してるわけですから薄くなった結果とは思えますが



志才が諱となる訳ですが…、字面の印象だけだと正直、諱には見えません(^_^;>う~んお気持ちがわかりますので虚名かなとも思ったんですよ (戯)れるとか(志)すそして(才)なんて正に作ったみたいな諱なんで

魏の「朱霊」が人材大好きな「曹操」に嫌われた経緯を教えてください。 パッと見C...

魏の「朱霊」が人材大好きな「曹操」に嫌われた経緯を教えてください。

パッと見Cランクの朱霊なので、嫌われた事態が代名詞になってる気がしますが、

一般にもそうですか?

漫画でも演義でも史実でもかまいません。







確かに朱霊は『三国志演義』では単なるザコ将で、その流れに沿ってる日本の三国志系の小説や漫画などでも扱いがよくありません。ですので質問者さんの「パッと見Cランク」という言葉には異論はほとんど出ないでしょうね。



正史の『三國志』を見ると、朱霊は袁紹配下時代に徐州の陶謙を攻めた曹操の援軍に来て、そのまま留まり曹操の配下となっています。以来、徐晃や張コウ[合β]、夏侯淵らの副官として各地を転戦した歴戦の勇将であり、威厳があって麾下の軍の規律の正しさを曹操に誉められてもいます。



朱霊が曹操に憎まれていたというのは正史『三國志』魏書于禁伝の本文に書かれているので事実の可能性が高いですが、その割には憎まれるきっかけとなった事件などは一切書かれていません。

何があったのかは歴史の闇の中ですが、個人的には「いわれなき憎悪」ではないかと思っています。



曹操は求賢令を出して性質・性格に関わらず能力のみを人材の評価・採用基準とするなど、有能な人物を好む人材マニアだと考えられていますが、実際には朱霊をはじめ、理由もなく嫌って遠ざけたり処罰したりといった人物が何人もいます。

曹操も人の子だったと言ってしまえばそれまでですが、世間で言われているような長所だらけのスーパーマンではなく欠点もちゃんとあったという事を、この事実は伝えています。



ちなみに朱霊は曹操の没後も魏朝に仕え続け、曹丕、曹叡、曹芳と、都合四代に渡って長く活躍しました。

軍権を没収されるほど憎まれても、忠誠心を全く揺るがせなかった朱霊の態度は見事の一言に尽きると思います。








もしかしたらなんですが袁術軍を倒す為に劉備に曹操が兵を貸した時に、袁術軍討伐後に劉備に国境の守りに必要だからと言われ兵を持って帰らなかったからかもしれません。



それだけ、劉備が怖かったんだと思います。



あくまで勘です。

三国志の真の主人公は誰ですか?

三国志の真の主人公は誰ですか?







『三国志演義』(演義小説)の主人公は劉備、のちに諸葛亮です。

日本の三国志小説はほとんどが『三国志演義』ベースなので、ほぼこれに準じます。



『三国志演義』の元ネタである『三国志平話』(民間講談)の主人公は張飛です。



『蒼天航路』(漫画)の主人公は曹操です。



『仲達』(塚本青史氏の日本の小説)なら司馬懿が主人公です。

他に、各人物を主人公にした小説や漫画が多数存在します。









…え、正史の『三國志』?

ああ、それなら本紀や伝(付伝を含む)を立てられている個人全員がそれぞれ主人公ですよ。








本当の主人公は曹操及び劉備だと思います。







私テキには、曹操ではないかと

思います







敢えて一人を上げろと言われたら、劉備でしょうね。

というのも三国志演義で見れば明らかに蜀目線ですし、現在でも中国をはじめとした歴史家の中では蜀漢が最も大義があったとする方は多いですからね。

大義がある人物が主人公なのはどの話でも至極普通の事でしょうしね。







三国志演義では劉備ですが、個人的には姜維です







苦労人劉備、河北・中原・西涼の覇王曹操、若い帝孫権、

臥竜の天才諸葛亮など、その人の目線から見ると誰も主人公に見えますが、

黄巾反乱~劉備死去までは劉備。劉備死後~五丈原戦までは諸葛亮ですね。

曹操は劉備の好敵手、孫権はわき役ぐらいでしょうか。







中国の人に聞いたら、やはり曹操だそうです。子供たちも常々、「大きくなったら曹操のようになりなさい」と教える人は多いけど、

あまり「劉備のようには」と言う人はいないみたいですね。まあ日本人的には劉備や諸葛亮が人気ありますが。







僕が思うに、「劉備玄徳」ですね







真の主人公は、いません。

三國志に関係する質問です 西涼地方の質問になりますが、 1、韓遂はいろいろな...

三國志に関係する質問です



西涼地方の質問になりますが、



1、韓遂はいろいろな君主と合体していますが、馬騰を除いて辺章、北宮玉、王國も早死にというか、、
君主になってすぐに亡くなっています

韓遂が暗殺しているのですか?

辺章、王國、北宮玉について知っていたら、こちらの経歴もお願いします





2、当時女性の身分は低いですよね

王異は韋康、趙昂、姜?の下で私なりにの解釈ですが、大きな戦績を残していると思います

もし彼女が男性だったなら、賈クや周瑜並みの軍師になっていたでしょうか?

韋康、趙昂、姜?(←忘れてしまいました)の経歴もあれば併せて答えていただけると嬉しいです





よろしくお願いします。







1.韓遂は辺章、王國、北宮玉を暗殺したか・・・。



韓遂は、いうなれば寝業師です。№1にはならず、陰で操りますが、

利用価値がなくなれば殺して次を探します。

仰るとおり、

韓遂は、王国と組んで、辺章、北宮玉を殺害し、

その後、王国を殺しています。



【王国(おうこく)】生年不詳~没年不詳。



宋建と共に羌の北宮玉と結んで反乱を起こします。

王国らは韓遂、辺章を拉致し、

軍権を任せて叛乱の首謀者に担ぎ上げました。



韓遂は北宮玉と辺章を殺し、逆に王国を首謀者に担ぎ上げます。

王国と韓遂は義兄弟の契りを結びますが、

結局、188年、討伐に来た董卓らに敗れたとき、

韓遂に追放されます。そのとき殺害されたともいわれます。



【北宮玉(ほっきゅうぎょく)】生年不詳~189年。



北宮伯玉とも呼ばれた羌族の首領です。

湟中月氏胡の種族で湟中義従となりました。(後漢書西羌伝)

中平元年(184年)冬、

北地郡の先零羌が枹罕・河関の盗賊どもとともに叛逆し、

湟中義従北宮伯玉・李文侯を将軍に擁立し、

護羌校尉伶徴を殺害します。

北宮玉は、宋建・王国らと結び、黄巾の乱に乗じて後漢朝領に攻め入り、

そこで韓遂・辺章を人材として得ると、涼州を席捲。

鎮圧に来た皇甫嵩も、功を上げられず追い返されます。



代わって張温が董卓、孫堅らを従えて討伐に来たので、これと激しく戦います。

北宮伯玉は辺章・李文侯らとともに韓遂の裏切りに遭い、

殺害され、(後漢書董卓伝)

反乱頭目の座を取って代わられました。



【辺章(へんしょう)】生年不詳~189年。



涼州の地で名を挙げ、督軍従事となります。

宋揚、北宮玉らの反乱に担がれて韓遂と共に盟主となり反乱を起こしました。

懸賞首になったので、名を「允」から「章」と改めました。

これを鎮圧するために董卓が中央から派遣されてきましたが、

董卓は戦果を上げることが出来ませんでした。

漢王朝では張温を総大将、孫堅と陶謙を参軍として討伐軍を派遣します。

辺章らは大軍が派遣されてくることを知って降伏しました。



189年、馬騰、韓遂らと共に刺史、郡太守を殺害して、

涼州で再び反乱を起こします。

軍勢は十万にも達し、天下は動揺しました。

後に辺章は病死したとされます。 (魏書・武帝記ほか)

味方の韓遂、王国に裏切られて北宮玉と共に殺されたともいわれます。





2.王異が男性なら・・・。



当時の女性には珍しく、故事を引いたりの受け答えは、

堂々としてお見事ですが、

それと戦略や戦術とは異なるものです。

賈詡と周瑜を同列に扱っては、それぞれ(特に賈詡)には怒られそうですが、

少なくとも賈詡の智謀、機知に長ける参謀術策には及ばないかと思います。



【韋康(いこう)】生年不明~212年



字は元将。京兆(陝西省西安の西)の人。

曹操配下の荀彧の推挙を受けて、父に代わって涼州刺史となります。

潼関の戦い以降に、曹操に大敗した馬超の攻撃を受けて冀城に立て籠ります。

包囲は8ヶ月にも及び、捕らわれて殺害されます。



【趙昂(ちょう こう)】生没年不詳。



字は偉章。妻は王異。

天水の参軍事。冀城に馬超が攻め、城主の韋康が殺されると、

楊阜、姜叙らと協力して馬超を退けます。

馬超が張魯の助けを得て再度攻めてきた際には、

王異と共に祁山に立て篭もり、

夏侯淵の援軍が到着するまで馬超の猛攻に耐え続けました。



演義では姜叙の部下となっており、

馬超討伐の案に乗ろうにも、息子の趙月が馬超の副将なので、

王氏(王異)に相談しますが、

「君主や父の仇を討つためならば息子の命は仕方が無い。

それでも貴方が迷うと言うなら私は先に死にます」と激励したため、

趙昂は楊阜らと共に馬超を撃退したとされます。



【楊阜(ようふ)】生没年不詳。



字は義山。

韋康が涼州刺史となると、別駕として召し出されます。

馬超に包囲され一旦降りますが、

韋康を殺害した馬超を憎み、姜叙、趙昂らと共に馬超に対して反乱を起こします。

この反乱で楊阜の一族7人が馬超によって殺され、

楊阜自身も重傷を負いますが、

馬超が冀城に留守に置いていた妻子一族全てを捕らえて処刑しています。

その後、武都郡に赴任、曹操の孫の明帝の代になると中央に召され、

将作大匠・少府に昇進しました。



【姜叙(きょうじゅ)】生没年不詳。



字は伯奕(はくえき)。

馬超が涼州に侵攻し、刺史の韋康を殺害すると、

韋康の部下だった姜叙は仕方なく馬超に従い撫夷将軍として歴城に駐屯します。

韋康の仇討ちの意思を抱いていた楊阜が、

姜叙にその気持ちを涙ながらに語ると、

感動した姜叙の母は姜叙に楊阜の計画に従うように命じます。

212年鹵城で楊阜と共に馬超に反旗を翻します。

馬超の妻子を捕らえて殺しますが、馬超は姜叙の母を捕らえます。

彼女は馬超のことを親不孝者の反逆者だと罵ったため、

馬超は彼女を始めとする姜叙の一族を虐殺し、

城を焼いて漢中に去りました。 (魏書・楊阜伝)

「正史三国志」について、その関係書籍で良いのが、あったら教えてください。

「正史三国志」について、その関係書籍で良いのが、あったら教えてください。







現在、一般書店で手に入る唯一といっていい「正史三国志」の訳本は、



『正史三国志』井波律子.今鷹真.小南一朗/訳

(ちくま学芸文庫)全8巻



になろうかと思います。お持ちかもしれませんが・・。



その他にご紹介するとすれば、



『正史三国志群雄銘銘伝』坂口和澄/著 (光人社)



700ページ越えで、読み応え十分、腹いっぱいになりますが、

正史に伝が載せられている人物と、

何故か「演義」が見逃した個性的な人物を、

厖大な注記の中から拾い出して、

その実像に迫る初めての正史人物列伝です。

全562人を収録。



『三国志:正史と小説の狭間』満田剛/著(白帝社)



正史三国志と三国志演義がいかにして生まれたかの概説から始まり、

後漢末~呉滅亡までの歴史の流れを細かく区切りながら、

その段ごとに主要な人物の、

小説に描かれているある意味虚像と史実とされる実像との違いを較べています。

読む価値十分です。



『三国志を読む』井波律子/著(岩波書店)



正史三国志と陳寿の伝記、魏書(武帝紀を中心に)、

蜀書(先主伝・諸葛亮伝を中心に)、呉書(呉主伝、周瑜・魯粛・呂蒙伝を中心に)

の全4回のセミナー本です。テンポがよくて読みやすいです。



『三国志きらめく群像』高島俊男/著(ちくま文庫)



この中国史カテでも評価の非常に高い名著です。

難しい内容も、サラリと読めて分り易い、必読かと思います。



『諸葛孔明の世界』加地伸行/編 (新人物往来社)



諸葛亮を巡る12編のレジュメを纏めました。

諸葛亮のファッションとか、文学とか、結構マニュアックな内容です。

正史を元にした大学教授クラスの考察なので信憑性はありますが、

どうしても「演義」の匂いを消すことはできませんね。

資料としては1級品だと思います。



『逸話で綴る三國志』坂口和澄/著(徳間文庫)



正史の作者陳寿があえて削除した出来事や、立場上書けなかった出来事を、

拾い出した逸聞集です。面白いです。



『三国志曼荼羅』井波律子/著(岩波書店)



正史にも精通し、演義の訳本でも有名な井波さんの書下ろしです。

魏の諸葛一族とか、諸葛亮が何故蜀を選んだか、曹操と清流派の関係など、

興味深い内容が並びます。



『三国志を陰で操った倭王卑弥呼』斉藤忠/著(学研)



三国時代と倭王卑弥呼の関係を、いろいろな観点から解き明かしています。

なるほどと思うところと、飛躍しすぎかろおもうところもありますが、

読んで損は無いかと思います。



などはいかがでしょうか。



原文をお読みになれるようなら、



『三国志』陳寿/著、裴松之/注(中華書局)



魏書3冊、蜀書・呉書各1冊

正史三国志の原文です。返り点などありませんから読むのは大変です。

でも、原文ですから、一度は目に通したいですね。

東京に住んでいた当時、手に入れましたが読み下しできるわけでもなく、

もっぱら眺めて、雰囲気だけでも愉しんでいます。

私の住んでる地方では手に入れることは困難ですが、

東京、大阪あたりなら中国書店に置いてるでしょう。少々値は張りますが・・。



『正史三国志英傑伝』『中国の思想』刊行委員会/編(徳間書店)



正史『三国志』の中から主要な人物を選んで、

原文、書き下し文とともに抄訳を載せたものです。

全員ではありませんが、主要人物は網羅してます。

原文に触れてみたい方にはお薦めです。

三国志―荀イク(彧)を調べるにあたって

三国志―荀イク(彧)を調べるにあたって

とある小説で荀彧に興味を持って、日本語訳ではありますが、『正史』と『後漢書』の荀彧伝に目を通してみました。





彼について調べる際、他に目を通しておいた方がいい人物の伝などありますか?武帝紀はところどころしか見ていないのですが、やはり武帝紀もきちんと読んでおくべきでしょうか。



また、荀彧に関係するオススメの論文・書籍などありますか?







それから、彼は後継者問題の際に曹丕派と曹植派のどちらについたか、あるいは中立を保ったのか。荀彧の立場を明確に示した資料ってあるのでしょうか。ネット上で見ていると“荀彧は曹植寄り”という意見を時々みかけるのですが、明確な根拠が分かりません。







正史『三國志』で荀イクの記述が多いのは、本人の伝以外では族子(おい)の荀攸伝、武帝紀、文帝紀、それに荀イクが推挙した郭嘉、程イク、鍾ヨウ、杜畿などの人物伝ですね。もしちくま学芸文庫の完訳本をお持ちでしたら、八巻巻末の人名索引で登場箇所は全て調べられますよ。

ちなみに荀攸は荀イクの祖父の兄弟のひ孫に当たります。つまり荀イクの息子達の世代(おい)にあたり、おじ(同族で父の世代)ではありません。歳は荀攸の方が荀イクより6歳上ですけどね(笑)。



荀イクが亡くなったのは212年で、曹操の魏公就任が取り沙汰されている時の事です。曹丕は26歳、曹植は21歳でまだ後継者問題は起きておらず、208年から副丞相として曹操の補佐をしている曹丕が後継者だと誰もが思っていた時期ですので、荀イクは普通に曹丕支持だったと考えられますね。

おっしゃる通り、netの「曹植支持」というのは根拠のない妄説でしょう。



書籍に関して、荀イクをメインテーマにした本というのはちょっと思い当たりません。曹操の霸業に重要な役割を果たした人物ですので、そういった本があってもおかしくないとは思いますが(^_^;








曹植派の根拠の一つとしては、魏書荀彧伝にある曹丕の対応と、子の荀惲が曹植と親しかったという記述などがあります。







皇帝即位の際

病気で死んでいるので

後継者はまだまだ軽い気持ちで

曹植の方が好き程度です

曹植が荀彧の事が好きみたいな感じです



万人の残す万状の轍は万の尺度をもってこれをはかる



曹操と荀彧の関係は三国志の醍醐味ですね



荀彧の事を一番しっているのは

伯父の荀攸です



曹操は好きすぎてあまり書き遺していないでしょう



陳寿も察しているでしょう



曹植あたりが意外に書き残しているかも

三國志に関する質問です 士燮とその一族…兄弟や親子関係の人物の名前、字、血筋、...

三國志に関する質問です

士燮とその一族…兄弟や親子関係の人物の名前、字、血筋、経歴をなるべく詳しく教えてください。士燮もお願いします


孫権に領土を奪われたことしか知りません



よろしくお願いします







【士燮(ししょう)】137年?~226年。字は威彦。

「正史三国志」の宗族(孫氏)の後、

あの太史慈伝の次に挙げられ、

併記ですが、士燮伝として筆頭に挙げられる、

隠れた大物です。



士燮は、ベトナムでは「シーティェップ」と呼ばれ、

ベトナムの歴史の教科書にも出てくる大物です。

南交学祖とも呼ばれ、

士燮がベトナムに文化や字を伝えた始祖として敬服されています。

喃語(ベトナム文字)の考案者ともいわれます。



士燮は三国志では交州の交趾太守に過ぎません。

交州刺史ですらありません。

それでいて、士燮伝に、

『士燮兄弟は並ぶ者もない権威を振るい、

外出や帰還の時には鐘が鳴り、楽隊が揃い、

お付きの車や騎馬が道一杯にあふれ、

左右には香を焚く胡人が数十人いた。

妻たちは専用の車に乗り、子供たちは歩兵や騎兵を従え

異民族たちを服従させていた。』

とあるように、栄華を極めています。

交州独自の物産と、

「南海貿易」の利権で、莫大の財を築いたとされます。



士氏の先祖はもともと魯国のブン陽の人でしたが、

王莽のために混乱が起こると、それを避けて交州に移った。

それから6代目が士燮の父の士賜とされます。



遼東の公孫氏を魏・呉・蜀に続く四つ目の鼎立政権として、

数える説があるのに対して、公孫氏に劣らない勢力でありながら、

士燮が独立勢力として数えられる事がないのが、チョッと残念な気がします。



士燮伝に

『士燮は温厚な人柄で、謙虚で驕る事がなかったので、

士燮の元に身を寄せて難を逃れる者が何百人にものぼった。』

とあります。



この時代、戦乱を避けて江東や荊州に避難し、

士燮の元にいた(一時的にでも)人物を正史から探ってみても、

袁忠・袁徽・桓邵・許靖・劉巴・程秉といった人物が見つかります。

交州刺史であった朱符や張津ではなく、

士燮を頼ったのは信頼に足る教養人だったからだと思います。



士燮は交州の地理的要因や、地力を冷静に分析し、

中央の動静には避難してきた知識人から情報を得ていた形跡があります。

こうした情報網があったからこそ、

士燮の政治判断力が正確で、住民達を慰撫し、

身の丈以上の権力を望まずであったからこそ、

士燮が死ぬまで、

孫呉政権が交州の直接支配ができなかった理由だと思います。



その後、孫権は歩騭に軍を預けて交州に侵攻して来たとき、

士燮は民衆を戦火に巻き込むことを嫌って、

孫権に息子を人質として差し出してあっさりと降伏しました。

孫権は、士燮の交州での人望を見て、直接支配をあきらめ、

武昌の太守に任じて、厚く遇しています。



士燮は90歳で亡くなりますが、中央での戦乱に巻き込まれるでもなく、

貿易で財をを成し、栄華を極め、半独立勢力として自由に生きた、

幸せな人生だったのではないでしょうか。



【士壱(しいつ)】?~242年?

士燮の弟。

後漢王朝の督郵(行政官の監視役)。

董卓に睨まれ、身の危険を感じて都を離れて、

兄士燮のもとへ帰郷しました。

その後、劉表が交州へ支配を伸ばそうとしたため

兄の士燮は曹操と結んでこれに抵抗しようとしますが、

兄の推挙で合浦の太守に任じられます。

226年の士燮の没後、士氏は衰退、

士徽の乱により孫権によって滅亡します。

子の士匡とも、命だけは許されたものの、

士壱も法を犯したという名目の下で処刑されてしまいました。



【士祗(しし)】163年?~?

士燮の次男

父と同じく領民思いの温厚な人物で、

弟の士徽が、孫権に対して反乱を起こしたとき、

士祗も反乱に参加しましたが、むしろ消極的であったといわれています。

従兄弟の士匡の説得で、士祗は降伏します。

弟の士徽や士幹らの説得に当たり、彼らも降伏させますが、

呂岱の騙し討ちに遭い、会見場で兄弟皆殺しにされてしまいました。



【士徽(しき)】165年?~?

士燮の三男。

父・士燮の死後、呉の孫権から安遠将軍・九真太守に任命されました。

しかし父の代から交州を治めていた士徽は、

後任の交州刺史戴良と交州太守陳時の着任を阻止しようと、

孫権に対して反乱を起こします。

討伐のため派遣された呂岱に激しく抵抗しますが、

兄・士祗の説得を受け、自分の命を助けるという条件のもとに開城・降伏しました。

しかし、呂岱は士徽を許さず、

士徽は兄の士祗、弟の士幹、士頌もろとも会見場にて処刑されました。

首は、武昌にて晒されたといいます。



【士匡(しきょう)】生没年不詳

士壱の子。

従兄弟の士徽の乱には参加せず、

交州刺史の呂岱より従兄弟たちの説得を頼まれ、

士徽らを降伏させることに成功します。

しかし、騙し討ちによって士徽兄弟は皆殺しとされ、

士匡は、呂岱の助命嘆願と士徽らを降伏させた功績により、

父の士壱と共に死一等を免ぜられたものの、

官位剥奪のうえで庶民とされました。



【士賜(しけい)】

士燮の父。

桓帝(146年~167年)の時代に日南太守となりました。。



弟に、士壱、【士鞘】、【士武】、

子供に、長男【士廞】、士祗、士徽、四男【士幹】、五男【士頌】がいます。

三国志の本を紹介してください(上級者向け)

三国志の本を紹介してください(上級者向け)

ぼくが紹介してもらいたい本は

①曹操について詳しく書かれているもの(魏ではなくあくまでも曹操です)

②演義とは関係ないもの

③結構上級者向けの物(曹操の行動を知らない初心者向けではなく、その行動の解説的な詳しく解説されているものがいいです。)



以上が条件(?)です。

例としては「歴史群像シリーズの三国志 上巻 ~曹操・劉備・孫権天下への大計~」なんかすごく好みです。

ですからこのような本があれば教えてください。

小説はちょっと嫌です。



歴史群像シリーズの三国志 上巻 ~曹操・劉備・孫権天下への大計~

http://tenant.depart.livedoor.com/t/gunjisenshodo/item3263003.html







歴史群像シリーズの上巻お知りなら、同じ下巻ありますし、その流れなら、

学研の歴史群像シリーズに

「三国志」上17(紹介されたムック)

下18巻

「群雄三国志」28

「演義三国志」83

新歴史群像シリーズ「三国志英雄録」7

歴史群像中国戦史シリーズ「真三国志」一.二

宝島社「僕たちの好きな三国志」1.2

「僕たちの英雄伝説」

などの所謂ムック本がビジュアルも載ってますし解りやすいかもしれません。



あくまで私の好みです。合う合わないはご勘弁を・・。



『正史三国志群雄銘銘伝』坂口和澄/著 (光人社)



700ページ越えで、読み応え十分、腹いっぱいになりますが、

正史に伝が載せられている人物と、

何故か「演義」が見逃した個性的な人物を、

厖大な注記の中から拾い出して、

その実像に迫る初めての正史人物列伝です。

全562人を収録。



『三国志:正史と小説の狭間』満田剛/著(白帝社)



正史三国志と三国志演義がいかにして生まれたかの概説から始まり、

後漢末~呉滅亡までの歴史の流れを細かく区切りながら、

その段ごとに主要な人物の、

小説に描かれているある意味虚像と史実とされる実像との違いを較べています。

読む価値十分です。



『三国志を読む』井波律子/著(岩波書店)



正史三国志と陳寿の伝記、魏書(武帝紀を中心に)、

蜀書(先主伝・諸葛亮伝を中心に)、呉書(呉主伝、周瑜・魯粛・呂蒙伝を中心に)

の全4回のセミナー本です。テンポがよくて読みやすいです。



『三国志きらめく群像』高島俊男/著(ちくま文庫)



この中国史カテでも評価の非常に高い名著です。

難しい内容も、サラリと読めて分り易い、必読かと思います。



『逸話で綴る三國志』坂口和澄/著(徳間文庫)



正史の作者陳寿があえて削除した出来事や、立場上書けなかった出来事を、

拾い出した逸聞集です。面白いです。



『三国志曼荼羅』井波律子/著(岩波書店)



正史にも精通し、演義の訳本でも有名な井波さんの書下ろしです。

魏の諸葛一族とか、諸葛亮が何故蜀を選んだか、曹操と清流派の関係など、

興味深い内容が並びます。



『三国志を陰で操った倭王卑弥呼』斉藤忠/著(学研)



三国時代と倭王卑弥呼の関係を、いろいろな観点から解き明かしています。

なるほどと思うところと、飛躍しすぎかろおもうところもありますが、

読んで損は無いかと思います。



『三国志の女性たち』渡邉義浩・仙石知子/(山川出版社)



『もう一つの三国志「演義」が語らない異民族との戦い』

坂口和澄/(本の泉社)



曹操がお好きなら、

『少年曹操』草森 紳一(文藝春秋)

曹操の少年時代に主題をおいた物語的な解説書です。

斬新ですね。

曹操の詩の解説や時代背景、赤壁で孫権に送ったといわれる手紙の解析など、

マニュアックな内容ですが、夢中になります。



『覇道三国志―曹操の壮心やまず―』雑喉潤(東京書籍)

荀彧の死の真相など、独特の切り口で面白いです。



『曹操―魏の武帝』石井 仁(新人物往来社)

学術的ではありますが、読み応え十分です。



《追記》

それは失礼しました。余分な部分を削除させてもらいました。

あと何冊かを・・。



『三国志曹操伝』別冊宝島編集部編(宝島社文庫)

曹操の実像に迫った解説書。絵や図表も豊富で見所ありますよ。

安い(581円)以上の充実度はあります。



『三国志の英傑曹操伝』守屋洋(学研M文庫)

伝記形式の読み物です。曹操語録や曹操の詩も登載でお徳感あります。



『曹操/三国志の奸雄』竹田晃(講談社学術文庫 )

辞書的にも使えますし、なかなかの出来です。



『正史三国志/英雄奇談』坂口和澄(角川学芸出版)



『曹操注解:孫子の兵法』中島悟史訳解釈(ビジネス社)



『三国志と乱世の詩人』林田慎之介(講談社)








■高島俊男『三国志 きらめく群像』(ちくま文庫)

■渡邉義浩『図解雑学 三国志』(ナツメ社)

■岩堀利樹『正史「三國志」完全版』(文芸社)



以上3冊は三国志で必ず抑えておくべき書物なので、

既に読まれていることを前提にします。



①石井仁『魏の武帝 曹操』(新人物往来社文庫)



②川合康三『曹操 矛を横たえて詩を賦す』(ちくま文庫)



③竹田晃『曹操 三国志の奸雄』(講談社学術文庫)



④堀敏一『曹操―三国志の真の主人公』(刀水書房)



⑤中村愿『三国志 曹操伝』(新人物往来社)



①から⑤の中で、

①は学術的ではありますが必読書、

読みやすいのは③になります。







frogman03544さんがめぼしい本を挙げてしまわれたのですが(笑)、まあ「上級者向けの三国志本」という事で2タイトル挙げさせて頂きますね。

といっても、どうやら曹操に関して詳述された本をお求めのようですし、私は個人的に特定の人物だけを取り上げる本をあまり好まないので、ご質問の趣旨とはズレてしまいますが…(^_^;



『三国志vs三国演義』

(光栄・光栄カルト倶楽部/三上修平・編著/税込定価1200円/1994年)



極めて早い段階で世に出た正史と演義の対比本です。主な群雄たちを軸に論述してあり、曹操は第六章で取り上げられています。

絶版であり名著の評価が高く、Amazonなどでも定価より高額で取引されますが、必ず買って読むべき一冊です。



『正史三国志英傑伝』

(徳間書店/『中国の思想』刊行委員会/全四冊&別巻一冊/各冊税込定価3500円/1994年)



正史『三國志』の抄訳本です。Ⅰ、Ⅱが魏書、Ⅲが蜀書、Ⅳが呉書で別巻は全人名事典になっています。抄訳とはいえ原文も豊富に掲載されており、正史から曹操の事跡を追うにはよい本です。漢文が読めるならば、ちくま学芸文庫の完訳本よりも重宝するでしょう。また別巻の全人名事典はその名の通り、正史に名前が当時するうちで過去の人物を除く約3500名もの人名と事跡を採録した唯一の事典です。

やはり絶版であり、Amazonなどでもバラ売りの形でしか売られていませんが、是非揃えられる事をお勧めします。







普通の上級者だったら一番いいのは陳寿の正史「三国志」がいいのですが・・・



結構簡単ですけど・・・面白いほど分かる三国志・・・正史と演義の違いは分かりやすいです



これも簡単ですけど・・・雑学図解三国志



小説が嫌ならダメなんですが・・・宮城谷昌光の三国志は最高です!



今出てる中で9か10巻ぐらいでてますが全部読むのはしんどいですねw



3~8ぐらいでいいかなとは思いますが・・・







なんだかんだ書いて、あなたにあってると思うのは石井仁の「曹操 魏の武帝」でしょうか

三国志の人物伝みたいなものはないんでしょうか できれば小説

三国志の人物伝みたいなものはないんでしょうか

できれば小説







◎坂口和澄『三國志群雄録』(徳間文庫)

…100名余りの人物伝(1人につき3~10ページ)で、正史と演義の異同をも示し、読みごたえあり。私にはこれで十分です。



◎渡辺精一『三國志人物事典』[上][中][下](講談社文庫)

…以前はこれの全1巻本を持っていました。1000ページぐらいあり、正史・演義の両方を詳しく解説。至れり尽くせりですが、私には詳し過ぎて…。



◎陳舜臣『諸葛孔明』『曹操―魏の曹一族』(中公文庫)

…小説ですが等身大の人物を描いていると感じます。薦めます。

三國志、三国志とかの登場人物の名前について疑問…。 劉備玄徳の「備」 関羽雲長...

三國志、三国志とかの登場人物の名前について疑問…。



劉備玄徳の「備」

関羽雲長の「羽」

張飛翼徳の「飛」




この名前の二文字目は どうやって決められのですか? 親が決めますか? いつですか? 産まれた時ですか?







劉備を例に取ります。

姓+名+字で劉+備+玄徳、つまり二文字目の「備」は「名(諱)」です。

これが諸葛亮なら諸葛+亮+孔明という事になります。



姓はもともとの一族全体を表す「姓」と一族の中でも特定系統の直系を示す「氏」に大別されますが、劉備の時代にはそういう区別はほとんど無くなっています。

名は、生前は「名」、死後には同じものを「諱(いみな=忌み名)」と呼び変えます。劉備はすでに故人ですので、備は諱という事になります。

字(あざな)は成人してから正式に名乗るもので、他人が名を呼ぶ事は基本的に避けるべきという風習から「通り名」としてつけられ使用されたものです。

つまり姓がファミリーネーム、名(諱)と字はどちらもファーストネームです。時々「字はミドルネームみたいなもの」という説明を見かけますが、これは間違い。



で、名をつけるのが親かどうかですが、別に親と決まっている訳ではありません。

まあ通常は親が決めるパターンが多いでしょうが、例えば誰か名士や有力者に「名付け親」になってもらう場合もあったでしょう。また『三國志』魏書トウ[登β]艾伝には、12歳の時に母に連れられ行った潁川で陳寔(魏の陳羣の祖父)の碑文を読み、自分で名を範、字を士則と名乗った事が記されています。後に一族で範と名乗る者が出てきて名を艾、字を士載と改名もしています。つまり自分で名付ける場合もあったという事。

字も成人してから使うものですし、親ではなく本人が付ける場合もあったでしょうね。



親がつけるのは「小字(こあざな=幼名)」です。劉禅の「阿斗」や曹操の「阿瞞」「吉利」などが知られていますが、これは成人前の子供の通称であり、成人前はこれでしか呼ばれません。当然、生まれてすぐに親が決めないと都合が悪い性格のものですから、ほとんどが親の命名でしょう。








昔の中国人は姓と名と字(あざな)が有ったことはご存知でしょうか。

例えば劉備玄徳の場合、劉は姓、備は名、玄徳は字(あざな)になります。



名は子供が生まれて3カ月目(100日のことも有ります)に親がつけます。

(3カ月の子供が自分で名前をつけることはできないですからね・・・)



字(あざな)は成人した時につけます。

中国の習慣では、相手の名前を直接呼ぶのは無礼なこととされていました。

主君や両親以外は、基本的には第二の名前である「字」を使うのが礼儀です。

「字」は社会に出た時に使う名前といえます。



男は20歳で成人となり、冠をかぶり字をもつようになります。

親が子供の名前を決めた時、字も考えておくこともあったと思いますが、多くは自分で決めたと思われます。

例えば毛沢東の字は「潤之」ですが、これは岳父の影響をうけて毛沢東が自分でつけた字です。



字は通常、名前と関係がある文字が使われます。

どういう関係?というとまた複雑ですが、簡単に分けると、同義語、反対語、お互いに影響する語、名を解説する語等が有ります。



関羽や張飛の名と字は分かりやすいです。



関羽の「羽」は鳥に関係し、空を飛ぶもの。

「雲長」の「雲」も空のものです。

「羽」と「雲」が呼応しています。



張飛の「飛」は「翼徳」の「翼」と呼応しているのがわかると思います。

*張飛の字は「益徳」とも言いますが、この検証は「字」の説明から外れるので省略します。



劉備の場合はちょっと難しいです。

「玄徳」とは『老子』という書物に出てくる言葉で、「玄」は「暗いこと」そこから転じて「取りとめのないこと」「はっきり把握することができないもの」の意味もあります。「玄妙」という言葉が有りますね。この「玄」も同じ意味です。

「玄徳」とは「漠然模糊として理解することができないほど奥深い徳」の意味になります。

劉備の「備」は「備え持つ」の意味なので、名と字で「玄徳を備え持つ」という意味になります。



字の説明が長くなってしまいました。



以上をまとめると、

劉備玄徳等の2文字目(諸葛亮孔明は3文字目)は「名」といい生まれて間もなく親がつけます。

その後ろの2文字は「字」といい成人した時につける社会生活用の名前です。



*ちなみに女性の場合は結婚する時に簪をして字をつけました。

結婚前の女性を「未字」「待字」等とよぶことが有ります。

これは未婚のため字を持っていないことを表します。



*現在、字の習慣はほとんど残っていません。

但し、中国は同姓同名の人が多いため字の習慣を復活させようという意見も出ています。







劉備の「備」は諱(いみな)ですので,親が決めたものです.

親や主君が呼ぶときに使うもので,他の人がこの名で呼びかけるのは非常に無礼とされます.

一方の「玄徳」は字(あざな)で,一般に使われる名です.

成人するときに自分で付けるのが普通ですね.



通常は「劉備玄徳」とか「関羽雲長」のように諱と字を並べて使うことはありません.

「劉備」もしくは「劉玄徳」と書くのが普通です.

三國志に関する質問です 1、零陵太守劉度には劉賢という息子がいるそうですが、...

三國志に関する質問です





1、零陵太守劉度には劉賢という息子がいるそうですが、本によっては劉延となっているのも見かけます

どちらが正しいのでしょうか




2、荊州の太守劉度含め韓玄、金旋、趙範は劉表死後、劉備に領地を奪われていきますが、彼らは独立勢力だったのでしょうか?

また、独立勢力だとすれば何故独立したのでしょうか?

独立勢力でなければ何故

4人は協力して劉備に対抗しなかったのでしょうか?



よろしくお願いします







劉度は『三国志』(いわゆる正史のひとつ)先主(劉備)伝に名前だけ出てきますが、とくに抵抗することもなくあっさりと降伏してそのまま記録から消えます。金旋がわずかに事績が残るのみで、あとの3人はほぼ名前だけと言っても良いでしょう。まずその点に留意してください。



1.劉度の息子というのは小説『三国志演義』に出てくる架空の人物です。劉賢の名前が一般的ですが、版によって劉延になっているようですので、どちらが正しいとか間違いだということはありません。統一してくれるほうがありがたいのですがね。



2.彼らは基本的には朝廷が任命した太守たちです。

荊州全体は曹操に降伏しているわけですが、その曹操は孫権軍に敗れて実効支配しているのは襄陽以北です。いわば飛び地になってしまったわけで、さぞ去就に迷ったことでしょう。1州丸ごと領有しているならともかく、1郡の太守ではよほどの才覚がないと生き残りも難しいでしょうし。

当時は太守と言えども地元の有力者の意向を無視できなかったので、各郡の対応がバラバラになったのだと思います。連絡を取り合って4郡をまとめるようなリーダーがいなかったのでしょうね。

魏の曹丕が太子に命じられたとき、 弟の曹植は、何処に行かされたのでしょうか? ...

魏の曹丕が太子に命じられたとき、

弟の曹植は、何処に行かされたのでしょうか?



何かの記述で、曹植が曹操の不興をかって(無断で司馬門を通ったなど)

太子を曹丕に決めたのだと思うのですが、

その際、曹植はどこかの地へ?飛ばされた(封じられた)

みたいなのを見た気がするのですが…

それが、どこかが分かりません



ドラマ三国志では、”ようじょう”と言っていた気がしますが、

漢字が分からないので、調べても分かりませんでした

後は、臨菑?というのもちらっと聞いた様な気がするのですが…



正確な所、今分かっているのは何処なのでしょうか?







正史『三國志』魏書の陳思王植伝(曹植の伝)によれば、211年、20歳の時に平原侯、214年(23歳)に臨シ(携帯では漢字が出ません)侯に封ぜられています。

同じく魏書の武帝紀(曹操の伝)には217年10月に曹丕を魏の太子としたことが記されています。

魏書文帝紀(曹丕の伝)を見ると、211年(曹丕25歳)に五官中郎将・副丞相になっており、魏の太子となったのはやはり217年(31歳)の時です。



この211年から217年の間、曹操は魏公(213年)から魏王(216年)へと進みますが、曹丕には官職を与えて封爵を与えず、曹植には封爵を与えて官職を与えていません。曹植をギョウ[業β]の守備に就かせたという記述がありますが、これは要するに魏王国の国都であったギョウに住んでいたというに過ぎません。

つまり曹植は実家暮らし、曹丕は副丞相として洛陽(後漢帝国の首都)で曹操の補佐をする、という形です。ですので曹操には最初から幼長の区別をはっきりさせ、嫡男たる曹丕を後継とする明確な意図があったものと考えられます。

ちなみに陳思王植伝を見る限り、曹植の司馬門通行事件は太子が曹丕に決まった後のようです。



太子決定後の曹植ですが、219年(28歳)に南中郎将・征虜将軍として曹仁への援軍の将の辞令を出すはずでしたが、酔っていて命令を受けられず取り止めとなっています。

その後曹植は、曹丕が帝位に登ると安郷侯(221年)→ケン城侯(221年)→ケン城王(222年)→雍丘王(223年)→浚儀王(227年)→雍丘王(228年)→東阿王(229年)→陳王(232年)と、目まぐるしく転封と移動を強制され、その間幾度となく政治に参画させて欲しいと願うも却下され、失意のうちに41歳で亡くなります。

死後に「思」と諡されたため、陳の思王と通称されます。

最近、三国志のアニメ化が目立つけどあなたは 日テレ系で放映された「蒼天航路」と...

最近、三国志のアニメ化が目立つけどあなたは

日テレ系で放映された「蒼天航路」とテレ東系で

現在放映されてる「最強武将伝・三国演義」

どちらが好きですか?







曹操好きとしては〈蒼天航路〉です。



三國志演技を中心にした作品ばかりなので、魏の物語は新鮮で面白かったです。



漫画も評価高いですしね。

三國志について全く知識のない私が、これから三國志を勉強していくにあたり、一番...

三國志について全く知識のない私が、これから三國志を勉強していくにあたり、一番入りやすい、わかりやすい、好きになれそうな、などの文献や媒体を教えて下さい!







“勉強する”のに適しているかは・・?・・ですが・・・・。



※俗にいう『三国志』は、中国で書かれた『三国志演義』という小説のことで、“魏・呉・蜀”の三国時代の史実をまとめた歴史書の『三国志』とは、異なるからです・・・・。

※史実の『三国志』を歴史書から学ぶのだとしたら・・・・自分ではお役に立てませんm(_ _)m





★いわゆる一般に言われている『三国志』の物語を詳しく知りたい★のならば・・・



①横山光輝:『三国志』(漫画・・・単行本全60巻、漫画文庫版全30巻)

→本家本元である、『三国志演義』をもとに書かれた、吉川英治著の『三国志』をもとに書かれているので、ストーリーはほぼ網羅されている。

→漫画なので、登場人物も視覚的にとらえられるため、読み進めやすい。

→『三国志人物辞典』という、横山三国志のガイドブックもあるので、合わせて読めば、より世界観をつかみやすい。



横山三国志で、世界観とストーリーをつかんだら・・・、

②吉川英治:『三国志』(小説)

→漫画で読むのと活字で読むのとはまたひと味違います。日本では『三国志』と言えば、“吉川三国志か横山三国志か”というくらいの作品。漫画を読まない人にとっては、まちがいなく吉川三国志が一番でしょう。



三国志を原案にしたメディアミックスを楽しむのも・・・・・。

③映画:『レッドクリフ』

→近年話題になった映画です。(テレビCMもバンバン流されてました)

→壮大な三国志の物語の中で最も盛り上がるエピソード、“赤壁の戦い”の部分を実写映画化した作品。関係者の評価もけっこう高いようです。



④アニメ『三国演義』(TV東京系列で日曜午前9:30~で、現在も放映中)

→アニメーションの質は高いです。シナリオも練られているので、結構楽しめます。

→私見ですが、完全に大人向けなアニメ(結構本格的な三国志)なので・・・、もしかしたら視聴率がとれない、とかで打ち切られるかも・・・。自分は好きです。

※アニメ『横山光輝三国志』というのもありました。(自分は好きでしたが・・・“赤壁”までで打ち切り)



④王欣太:『蒼天航路』(漫画。週間モーニングにて9年間連載)

→普通、三国志といえば “劉備(善)VS曹操(悪)”として描かれるのがほとんどなのですが、ここでは曹操を主人公に据えて物語りが描かれます。



★おまけ★

●山原義人:『龍狼伝』(漫画。月刊少年マガジンにて1993年から現在も連載中)

→日本の中学生が、三国時代の中国にタイムスリップし劉備軍に拾われ・・・。『三国志』のストーリーを知っているので、目の前で始められた戦いの打開策を助言・・・功績を認められ劉備軍の軍師に・・・。

→なかなか面白い設定で始まったので期待していたが、途中からバトル漫画に・・・・・。



●池上遼一:『覇-LOAD』(漫画。2004年より、スペリオールにて現在も連載中)

→三国時代、日本から海を渡ってきた一人の男が、(実は暴君だった)劉備を殺害し、自ら“劉備玄徳”を名乗る・・・・。

→今までに無かった設定に期待大。もう少し単行本がたまってきたら、まとめ読みする予定です。








三国志演義であればやはり吉川三国志が一番かと。

そこから興味のある人物や国など深く探っていくのが三国志の醍醐味ですね。

私は正史の方にシフトしましたけど、今でも演義も正史も両方楽しんでますね。







私もかなりの種類を読んだ方だと思いますが、横山光輝の漫画と、その元である吉川英治の小説「三国志」が手に入りやすいのではないでしょうか。

中学生の時図書館で借りて、気に入ったので購入した「平凡社 中国古典文学大系 三国志演義 上下」が一番好きですが、入門向とはいえないかもしれません。







ゲームで、「三国志ゲーム」がありますので、その登場人物の顔をみてみてください。



伝えられてきている体格や人格が、うまいことキャラクターのイメージに描けていますので

つかみやすいですよ。



(例: モンゴルの聞かん坊暴れん坊なキャラクター→赤い民族的なイスにふんぞり爪楊枝くわえたみたいな)



三国志は登場人物や国名などこんがらみやすいので、ゲームのキャラの顔をみるとおすすめです。



たとえば、私が最初に三国志を知ったゲームでは、知的な戦略家の「りゅうび」はハンサムで韓国のヨンさまみたいな顔立ちで、武力家の「そうそう」はシュワちゃんみたいな顔してて、その間でチョコチョコ出てくる人(名前わすれました)は太めな男性、とわかりやすいですよ。



パソコンのゲームですが、「三国志」そのまんまな題名のゲームでした。「パックマン」なみに古くからあるので、古すぎて今もネットにあるのかどうか分からないですが・・・。







横山光輝さんの「三国志」です!

アニメで、わかりやすいですよ~^^



でも60巻ありますので…

人肉を食べた事がある三國志の人物を教えて下さい

人肉を食べた事がある三國志の人物を教えて下さい







『三国志』の「武帝紀」によれば、曹操に仕えた王忠という人物が挙げられます。

彼が若い時代に出身地一帯が戦乱にみまわれ、飢えを凌ぐために人肉を喰らったとあり、後年にこの件で曹丕に侮辱されています。

また、同じく曹操に仕えた程昱という謀臣は、呂布との抗争の過程で曹操軍の食料が欠乏した際、かき集めた食料に人肉を混入させたとあり、これがために声望を失い、この一件が後々まで影響して曹丕が帝位に即いた際に三公に昇れなかった要因とされています。

ついでながら『三国志』の「魏書」「閻温伝」には、人肉を喰らう賊の存在が記されています。

これらを踏まえる限りでは、やはり人肉食はこの時代も嫌忌されるものであった様です。








劉備玄徳のエピソードは有名です。







程イクとかがいますよね

三國志の馬超の生涯をおおよそ教えて下さい、逸話や強さなども

三國志の馬超の生涯をおおよそ教えて下さい、逸話や強さなども







蜀書馬超伝より。

字は孟起、扶風郡茂陵県の人。父は馬騰。馬騰が長安を攻撃に失敗し、後に鍾ヨウに説得され、馬超が鍾ヨウに従い、郭援、高幹を討伐。馬騰は引退?し、長安に入ると、馬騰の軍を馬超が掌握。

馬超は韓遂と協力し、西方で乱をなし、そのため馬騰は殺される。潼関で曹操と対決。賈クの策略により韓遂と不仲になり、敗北。馬超は逃走。曹操が帰還すると、各地で蛮行を行う。しかし進退窮し、漢中に逃走。しかし漢中の張魯に失望し、劉璋と戦っていた劉備のもとへ。馬超の威名により、劉璋は劉備に降伏。その後は目立った功績もなく、47歳でなくなった。








蜀漢の五虎大将軍の1人



関羽・張飛・趙雲・黄忠にひけをとらない猛将









ウィキペディアからの引用です。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AC%E8%B6%85

三國志英傑伝をiアプリでやっています クリアエンディングの種類が複数あるようで...

三國志英傑伝をiアプリでやっています

クリアエンディングの種類が複数あるようですが

内容を知ってる方教えてもらえないでしょうか?


ちなみに自分は曹操を倒し献帝を呼び戻し

皆でお祝いをして酔っていた時に 普段から冷遇されて恨みを抱いていた部下の耿武に襲われあっけなく死んでしまいました

確かに耿武は1人だけレベル7のままでしたが…

相変わらず無理矢理すぎますねこのゲームは!

また最初からエンディングまでやる根気はないけどどうしても他のエンディングが気になるのでもし知ってる方は一種類でも教えて下さいm(__)m







自分が見たのは、関羽の仇討で呉に侵攻して敗れて白帝城で没するバッドエンディングです。

BB戦士・三国伝の中でどの武将が好きですか? (理由もお聞きしたいです。)

BB戦士・三国伝の中でどの武将が好きですか?

(理由もお聞きしたいです。)







曹操です。

理由

・三國志で曹操が好き。

・武器がいかつい。

・目がつり目(?)なのでカッコいい。

・赤の部分が張飛より濃いのでカッコいい。

・足が他のに比べて開くのでポーズがつけやすい。



もっと沢山の種類がでてほしいです。

赤壁の戦いについて 三國志最大のクライマックスである赤壁の戦いですが、大きく二...

赤壁の戦いについて

三國志最大のクライマックスである赤壁の戦いですが、大きく二説あるようです。


一つは、演義は脚色があるものの、周瑜率いる呉の水軍が曹操を完膚なきまでに破ったというもの。

正史の記述が淡白なのは、魏を正統とする立場だからやむを得なかったのだというもの。

もう一つが、そもそも戦い自体が創作であり、曹操は疫病の大流行を理由に撤退したに過ぎないというもの。

正史であろうと、事実は事実として書くべきだから、本当に大敗したらもっと詳しい記述があるはずだというもの。

皆さんはどう思いますか?







正史の記述が淡白だなんて与太話をどこで聞いたのか知りませんが、赤壁の戦いは正史の中でも戦況の推移が詳しく載ってる方ですよ。二説もヘッタクレもなく正史の記述で十分どんな戦いだったか分かります。というか質問者様は正史と演義の違いがどういうものか、そして正史がどういう書物なのか知らないご様子ですね。演義は物語、小説と同じ。歴史を書き綴った書物じゃありません。正史は歴史書。(多少魏を正当とするバイアスはかかっているものの)歴史的事実を書き記した書物。演義と正史どっちが正しいとか比べること自体間違ってるんですよ。

正史は三国の記録がそれぞれ独立しています。魏書は魏の人物についての書物、蜀書は蜀の人物についての書物という風にね。赤壁に関する記述が薄いのは魏書と蜀書での話。それでも実際赤壁(正確には烏林)で曹操が敗北したという記述は武帝紀・先主伝にバッチリ載っています。そして呉書、特に周瑜伝には戦いの様子が詳細に記録されています。記述が薄いとされるのは「その歴史的意義を鑑みると記述量が少ない」というだけであって、一つの戦いとしてみれば記述量は十分過ぎます。逆に官渡の戦いなどは蜀書や呉書にはほとんど記述がありません。魏書には詳しく載っている。そういうもんなんですよ。



正史の記述をまとめると、

『曹操は陸口を制圧すべく軍を進めるが、赤壁で周瑜らの水軍と遭遇し敗北する。両軍は烏林の北岸と南岸で睨み合いに入る。曹操の軍勢は疫病が猛威を振るい動けない、周瑜らも数で劣るうえ周瑜と程普に指揮権が二分されており身内同士でメンツの張り合いを起こす有り様。両軍とも決めてに欠ける中、黄蓋が偽降伏による火計を提案。周瑜はこれを了承し実行に移す。曹操はまんまとこれを信じ込み、火をかけられる。タイミング良く強風が吹き(註釈には東南の風とあり)、曹操の軍船は大炎上。疫病と軍船の焼失で戦闘不能に陥った曹操は南郡に曹仁を残し撤退した。』

ちっとも淡白なんかじゃありません。ここまで細かに陣営内部の様子まで分かってる戦いなんてほとんどありませんよ。私は赤壁で起こったことはこれ以上でも以下でもないと思っています。








三国志最大のクライマックスは官渡の戦いですよ。あの一戦で袁紹が負け、袁一族が滅んでいく(それでも七年かかっていますが)んで、曹操の政権が誕生するきっかけになったのですから。



ただし、官渡の次のターニングポイントは赤壁であることは否定しません。曹操が孫氏政権を屈服させていれば統一だったんですから。



正史の記述が淡泊かと言われれば武帝紀は確かにわりとあっさり。紀の方はいつどこで何があったか、事実があればそれでOK。各人物の活躍は列伝に載せればいい話。本紀に全部記述したら列伝の意味がないですから。hidakaさんのおっしゃるとおりなんです。淡泊ではないですよ。周瑜、黄蓋の伝を読み、想像すれば凄い戦いだったことがわかるはずです。







赤壁に関しては細かいエピソードは別として、ほとんど正史と演義の大まかな話の内容は変わりません。

長江を挟んで対峙し、呉が大勝利を収めた、それが真実だと思われます。

疫病大流行の件は、赤壁の後、曹操が負け惜しみで言った「疫病が流行った為に船を全て焼いて撤退した」事だと思います。このセリフは正史にも記述があるそうですよ。

三國志の諸葛亮はかなり過大評価されているとおもいます。政治家としては良いが軍...

三國志の諸葛亮はかなり過大評価されているとおもいます。政治家としては良いが軍事面での才はなく実際そちらは期待されていなかった。人を見る目もわるかった。


皆さんはどう思いますか?ただ三国中最弱の国力と一番人材の乏しかった蜀を切り盛りした政治力は一流なのは間違いありません

もし魏に仕えていたらここまで名声を得る事はなかったとも思います。それくらい魏は人材豊富でした。

皆さんの意見聞かせてください。

別に諸葛亮が嫌いなわけではありません。







いっちゃなんですがあなたみたいな意見はほんっと聞き飽きました

ネットでは「過大評価されるぎている」という反発意見のせいで最早過小評価されてるように思えます



諸葛亮とはちょっと関係ないですが、例えばあなたは赤壁の戦いで劉備軍は模様眺めしていたようなものだと言ってます

が、実は先主伝や武帝伝にははっきりと「(赤壁で)劉備軍に火を付けられた」と書かれています(表記の仕方は忘れましたが、はっきり劉備と書いてたように記憶してます)

武帝伝は曹操に都合の悪い記述は極力書かないのに負け戦について記述があるといことはそれなりに信ぴょう性のあることだと思っています

この点についてどう思います?





蜀は演義の過大評価の反動での過小評価が結構前から始まってます

もうそういう意見はいいです








うん、よくある間違った評価ですね。



>政治家としては良いが軍事面での才はなく



とんでもない。軍事も政治も一流の人物ですよ。



北伐が成果として芳しくないのは事実ですが、国力や兵力差を考えれば当然の話です。何しろ総人口約100万程度、最大動員兵力10万前後の蜀に対して、魏は人口500~600万、常備兵力(最大ではない)だけでも常に30万前後を揃えられるのです。しかも北伐時の魏皇帝は名君曹叡で、国内治安は良く人心掌握もしっかりしており治世は磐石の状態です。

魏国内に反乱など不穏な要素があるならまだしも、これで勝つのは後漢光武帝劉秀や唐太宗李世民にだって難しいでしょう。



このような状態にも関わらず諸葛亮は祁山に攻め上がり曹真・張コウ[合β]・司馬懿ら名将を度々打ち破り、しかも総人口の約1割を徴兵し連年出兵するという極限の軍事行動(現代で徴兵可能な限界数は総人口の3~5%と言われています。魏がこのレベル)を繰り返して国力を疲弊させず魏に付け入る隙も与えていません。

これは世界の軍事史を見ても稀有な事例だと思いますよ。



質問者さんのようなご意見は『三国志演義』を経て正史『三國志』を知った人にはありがちな「過小評価」です。もう少し深く正史を読み込んでいけば、私の言うことも納得して頂けるかと思います。

ただ、確かに臨機応変の戦術、人材を見抜く目やその配置・育成といった面には若干の難があります。そのあたり、諸葛亮も完璧ではなかったという事でしょう。



あと、諸葛亮の名が太祖武帝紀(曹操伝ではなくて)に出てこないのは当然の話です。だって諸葛亮と曹操は戦場で戦った事がありませんから。明帝紀(曹叡の本紀)には諸葛亮の名がこれでもかと出てきます。

それを言うなら趙雲など蜀書にしか出てきません。他国には注目も警戒もされていなかったという事になりますね。







もはや諸葛亮に対する評価には飽き飽きしました。知恵袋内で「諸葛亮」とてでもググれば多くの方が評価を述べています。が、一つだけ。



武帝紀に諸葛亮の名が出てこないのは当たり前です。諸葛亮が本格的に国政のトップに立つのは劉備死後、つまり曹操が死んで数年してから。逆に北伐を行っていた曹叡の代になると魏書の至る所に名前が出てくる。曹操と諸葛亮では活躍した時期が違います。それにそもそも他国の臣下のことが本紀や当主の伝に書かれること自体稀です(戦争に関する記述は別ですが)。例えば先主伝にも曹操政権の中心である荀彧や郭嘉の名前なんて出てきませんからね。







それはそれは…



真っ赤なホントですね。



魏志曹操伝には、一言も孔明の名前は書かれていないですからね。



少なくとも曹操は孔明の事を屁とも思ってないのは事実です。

三國志関係の書籍で、蜀以外がメインの本を探しています。 漫画・小説どちらでも構...

三國志関係の書籍で、蜀以外がメインの本を探しています。

漫画・小説どちらでも構いません。

【蒼天航路】【正史魏伝】【正史呉伝】【呉三國志】は読破済みです。

他にあったら、是非教えて頂ければと思います。







三好徹 興亡三国志

宮城谷昌光 三国志

陳舜臣 曹操 魏の曹一族

陳舜臣 曹操 残夢

でしょうか

蜀がお嫌いなら

酒見賢一の泣き虫弱虫諸葛孔明が笑えましたが、、、








伴野朗「呉・三国志」

今戸栄一「超・三国志 周瑜伝」

などいかがでしょう?







陳舜臣先生の「秘本三国志」は曹操がメインです。

私は例の曲がyou are my曹操に聞こえるくらいの曹操ファンです。 レッドクリフやメ...

私は例の曲がyou are my曹操に聞こえるくらいの曹操ファンです。

レッドクリフやメディアの、曹操や魏の扱いに萎えて落ち込んでいます。


そこで曹操ファンが楽しめる本や漫画などを、なるべく沢山の種類教えて欲しいです。

(夏侯惇も好きなので出てきたら嬉しいです。)

少しだけ出てくる場合には何巻か教えて頂けると嬉しいです。



ちなみにこれは持っています。

・蒼天航路

・三国無双

・怪力乱神クワン

・三国志戦記

・そうたくんのアキハバラ奮闘記

・突き刺せ呂布子ちゃん

・ブレイド三国志

・北方三国志(本&ゲーム)







私の読んだことのある書籍になりますが・・。



『曹操-魏の曹一族-』陳舜臣(中公文庫)全2巻

曹操の生涯を語る物語です。面白いですよ。



『曹操残夢-魏の曹一族-』陳舜臣(中公文庫)

曹操の死後の物語なので、曹操はでません。

が、上記の『曹操』に続く曹丕と曹植を巡る物語です。

この2人を主人公にした物語は他にありませんので、

是非読んでみてください。



『三国志曹操伝』別冊宝島編集部編(宝島社文庫)

曹操の実像に迫った解説書。絵や図表も豊富で見所ありますよ。

安い(581円)以上の充実度はあります。



『三国志の英傑曹操伝』守屋洋(学研M文庫)

伝記形式の読み物です。曹操語録や曹操の詩も登載でお徳感あります。



『逸話で綴る三国志』坂口和澄(徳間文庫)

正史三国志の著者である陳寿があえて削除した出来事などを登載。

魏、蜀、呉の逸話集です。面白いです。



『曹操/三国志の奸雄』竹田晃(講談社学術文庫 )

辞書的にも使えますし、なかなかの出来です。



『公子風狂―三国志外伝・曹操をめぐる六つの短篇』藤水名子(講談社文庫)

曹操とその女たち、息子たちの風狂・風韻を鮮やかに描きます。

人間臭さがたまりません。



『覇道三国志―曹操の壮心やまず―』雑喉潤(東京書籍)

荀彧の死の真相など、独特の切り口で面白いです。



『曹操―魏の武帝』石井 仁(新人物往来社)

三国志、後漢書、資治通鑑をもとにした、

三国前史もしくは曹操に関する現在もっとも詳細な内容だと思います。

学術的ではありますが、読み応え十分です



『三國志曹操伝』塚本 青史 (光栄)全3巻

読み応えあります。曹操伝では逸品のできかと思います。

1400ページの力作ですが、

熱中したら、夢に出てきそうです。



『曹操孟徳正伝』大西巷一(MFコミックス)全3巻

コミックです。あまり画調は好きではありませんが、

勢いを感じられる作品ですね。

チョッと、中途半端に終わって拍子抜けですが、

官渡で終わるわけはなく、まだ続くんでしょうか。



『曹操―三国志英雄伝』 三上修平, 小室孝太郎 (創美社コミックス)

これもコミックです。

赤壁までが主で、物足りなさはありますが、

丁寧な作風は好感度ありです。



『少年曹操』草森 紳一(文藝春秋)

曹操の少年時代に主題をおいた物語的な解説書です。

斬新ですね。

曹操の詩の解説や時代背景、赤壁で孫権に送ったといわれる手紙の解析など、

マニュアックな内容ですが、夢中になります。



《追記》



『逸話で綴る三国志』坂口和澄(徳間文庫)

盲夏侯(夏侯惇)の逸話も少しですがでてきます。

⑨「見てくれを気にせざるを得なかった時代」

三国志の武将伝 小説を教えてください PHPから出ているのは一通り買ったのです...

三国志の武将伝 小説を教えてください

PHPから出ているのは一通り買ったのですが

他におすすめはないですか







こんなのでどうでしょうか?



趙雲伝/大場惑(コーエー)全4巻

周瑜伝/今戸榮一(コーエー)全2巻

◎諸葛孔明/陳舜臣(中公文庫)全2巻

仲達/塚本 青史(角川書店)司馬仲達主役、単行本です。

◎曹操.魏の曹一族/陳舜臣(中公文庫)全2巻

三国志の英傑.曹操伝/守屋洋(学研M文庫)

三国志曹操伝/別冊宝島編集部(宝島社文庫)

◎三國志曹操伝/塚本 青史 (光栄)全3巻



◎泣き虫弱虫諸葛孔明/酒見賢一(文藝春秋)2巻刊行中

(お勧めです。面白いです。)



何人かの短編集としては・・。



◎曹操残夢.魏の曹一族/陳舜臣(中公文庫)

公子風狂―三国志外伝・曹操をめぐる六つの短篇/藤水名子(講談社文庫)

孫策の死/伴野朗(集英社文庫)三国志関係は孫策の1編のみ。



◎三国志外伝/三好徹(光文社文庫)

◎三国志傑物伝/三好徹(光文社文庫)

◎逸話で綴る三国志/坂口和澄(徳間文庫)



短編集は結構マニュアックな選考ですが、1人1~40ページなので

おやつ代わりに軽く読めますよ。



曹操は一番人気ですね。小説ではありませんが・・・。

曹操・三国志の奸雄/竹田晃(講談社学術文庫 )

覇道三国志―曹操の壮心やまず―/雑喉潤(東京書籍)

◎曹操―魏の武帝/石井 仁(新人物往来社)

少年曹操/草森 紳一(文藝春秋)

◎関羽伝/今泉恂之介(新潮選書)



◎個人的にはお勧め、書店で捲って質問者さんが判断してくださいね。

三國志について質問します。赤壁の戦いに於いて孔明が東南の風をおこし、火計によ...

三國志について質問します。赤壁の戦いに於いて孔明が東南の風をおこし、火計により、曹操軍は壊滅したと演義ではありますが、果たしてそうなんでしょうかね?







三国志演義ではそうですよね。正史では呉の国のだまし討ちと疾病の流行で魏の軍勢は退却したということになっているらしいですよ。



周瑜の部将の黄蓋は、敵の船団が互いに密集していることに注目し、火攻めの策を進言した。そして自ら曹軍に対し偽りの降伏を仕掛け、曹軍が油断した隙をつき、油をかけ薪を満載した船に火を放ち敵船に接近させた。折からの強風にあおられて曹操の船団は燃え上がり、炎は岸辺にある軍営にまで達した。船団は大打撃を受け、おびただしい数の人や馬が焼死したり溺死したりした。



『三国志』呉書周瑜伝の注に引く『江表伝』には、この時、周瑜らは渡渉し陸上から曹操の陣に追撃をかけ、曹操軍は潰走したと書かれている。



『三国志』蜀書先主(劉備)伝には、「劉備は孫権陣営の周瑜・程普らと力を合わせ、赤壁で曹操を大いに破り、曹操軍の軍船を燃やした」と書かれている。



『三国志』魏書武帝(曹操)紀の原書には、「公(曹操)は赤壁に到着し、劉備と戦うが、不利」としか書かれていない。『三国志』魏書武帝紀の注に引く『山陽公載記』には、「曹操は軍船を劉備に焼かれ、徒歩で撤退した」と書かれている。



曹操は敗残兵をまとめて撤退した。疫病で曹操軍の多くの役人・士卒が亡くなった。『三国志』呉書呉主(孫権)伝には、曹操軍の敗残兵の大半が飢えと病で亡くなったと書かれている。



周瑜・劉備らは更に追撃し、南郡まで兵を進めた。曹操は慣れない江南の地で疫病の流行に悩まされたこともあり、江陵を曹仁に、襄陽を楽進に託し、自らは北方に撤退した。








「武帝記」(魏)には

「陣内に疫病が大流行し、多数の死者を出した為にやむなく兵をひき帰還した」と。

これは「呉主伝」(呉)にも「先主伝」(蜀)にも同じ述懐があります。



では、疫病とは何か。

それは長江に生息する巻き貝(諸々の貝類)を媒介とする寄生虫による風土病です。

症状は重く、抵抗力の乏しい者は死に到るそう。

主に戦線で奮闘していた孫権軍は長江の海産物を食べ慣れて免疫があり無事だったのです。

そこで周瑜(時の司令官)は炎上させた船を曹操軍にぶつけ(南東の風も加え)大火計をもって打ち破ったのです。







正史では詳しい記述がありません、曹操(魏)軍に風土病が流行り火を放ったという説もあり本当に孫権・劉備(呉・蜀)連合軍が火攻めを仕掛けたのか分かりません。







孔明の出番を省けば、大体があっているのですが、



ある記述には、疫病の流行で士気が低下し、軍船に死体を載せて燃やし、撤退したと書かれていました。



これが負け惜しみなのか真実なのかは定かではありませんが、



ここからは推測ですが、元々撤退寸前だった曹操に周瑜が攻撃を掛け、その戦いを見ていた曹操が、士気が低すぎて、戦いを継続出来ないと判断して、撤退したのではないでしょうか。



どれが正解かは定かではないというのが現状ですね…(汗)







そうですよ^^



中国の三国志歴伝4の記載にあります。





演技も忠実に歴伝に沿って作られて、

人の性格までもが綴られているみたいです。

三國志について。 三國志に出てくる、呂布についてですが。 呂布は誰に殺された...

三國志について。



三國志に出てくる、呂布についてですが。





呂布は誰に殺されたのですか??





三國志に詳しい方教えてください!!。







大きく言えば曹操、細かく言えば曹操に処刑するよう命じられた兵隊(処刑人?)。



呂布は「抜群の腕力を有していた」と呂布伝にはあるんで、処刑されるときはキツく縄で縛られていたとはいえ、暴れたりでもすればそれはもう物凄い力だったでしょう。2~3人がかりで絞め殺した(呂布は絞殺されています)可能性は十分あるでしょうね。








呂布も人間です。そのころは40ぐらいで体力も落ちていたでしょう。戦争ですから捕まえられて死刑にされました。

死刑の命令は曹操が出しました。このような危ない人間なら、誰でも普通はそうすると思います。

ということで 曹操です。







曹操です。

部下の裏切りにあって捕えられ、処刑されてます。







曹操と劉備の連合軍と陳親子の計略に敗れたことになっています。

ただ、その時呂布の家臣の張遼は曹操に見込まれそれ以降重要な家臣として活躍しました。



そう考えると、それまでの悪行が身を滅ぼしたといえますよね。自分で自分の首を絞めたといえますね。

三國志 曹操伝というPCゲームについてです。 ソフトを起動した時に、画面が最大...

三國志 曹操伝というPCゲームについてです。

ソフトを起動した時に、画面が最大化されません。

ちなみにOSはWindows7です。

最大化できないならば、画面の縮尺を変える方法はありますか?







残念ながら 方法はありません

私はvistaなのですが いろいろ試してもムダでした なのになぜか先頭画面は拡大されるという…

三國志の小説や書物の種類で劉備以外を主人公にした書物はありますか? 例えば趙雲...

三國志の小説や書物の種類で劉備以外を主人公にした書物はありますか?

例えば趙雲伝や馬超伝みたいな感じで…







いりいろありますよ。



単独での小説としては・・。



荀彧/風野真知雄(PHP文庫)

関羽/菊池道人(PHP文庫)

張遼/桐谷正(PHP文庫)

孫策/加野厚志(PHP文庫)

呂蒙/芝豪(PHP文庫)

周瑜/菊池道人(PHP文庫)

馬超/風野真知雄(PHP文庫)

龐統/立石優(PHP文庫)

陸遜/太佐順(PHP文庫)

諸葛亮/狩野直禎(PHP文庫)

[実説]諸葛亮ある天才軍師の生涯/守屋洋(PHP文庫)

趙雲伝/大場惑(コーエー)全4巻

周瑜伝/今戸榮一(コーエー)全2巻

諸葛孔明/陳舜臣(中公文庫)全2巻

曹操.魏の曹一族/陳舜臣(中公文庫)全2巻

三国志の英傑.曹操伝/守屋洋(学研M文庫)

三国志曹操伝/別冊宝島編集部(宝島社文庫)



泣き虫弱虫諸葛孔明/酒見賢一(文藝春秋)2巻刊行中

(お勧めです。面白いです。まだ続きます。)



何人かの短編集としては・・。



曹操残夢.魏の曹一族/陳舜臣(中公文庫)

(曹操死後、魏滅亡までの曹一族の物語を収録してます。)

三国志軍師34選/渡邉義浩(PHP文庫)

三国志外伝/三好徹(光文社文庫)

三国志傑物伝/三好徹(光文社文庫)



短編集は結構マニュアックな選考ですが、1人1~40ページなので

おやつ代わりに軽く読めますよ。








中国にはTVドラマ化もされている「呂布と貂蝉」、「曹操と蔡文姫」があります。

日本語訳が出ているかどうかは判りません。

しょっちゅうドラマ化されているので列伝は沢山ありそうです。

三国志資料で良質、新しい書籍 三国志の小説以外で良質、かつ新しい資料を教え...

三国志資料で良質、新しい書籍







三国志の小説以外で良質、かつ新しい資料を教えてください。


曹操が好きなので『三国志実録』を手に取ろうとしましたが、かなり古い論文のようで現在の考え方とは異なる点があるらしいので躊躇しています。



私は単なる趣味人(読書好きであり、これを飯の種にしようとか、研究するとかではありません)。演義の小説をいくつか読んでいますが、ゲームやレッドクリフには手を出していません(今後も予定なし)

好きな人物は曹操と曹操立身期~全盛期の魏の人物。国柄は呉が好きで、ショクには興味が持てません。

今まで読んだ小説以外では『三国志きらめく群像』が面白かったです。

上記を踏まえ、おすすめがあれば教えてください。







曹操がお好きなら、

『少年曹操』草森 紳一(文藝春秋)

曹操の少年時代に主題をおいた物語的な解説書です。

斬新ですね。

曹操の詩の解説や時代背景、赤壁で孫権に送ったといわれる手紙の解析など、

マニュアックな内容ですが、夢中になります。



『覇道三国志―曹操の壮心やまず―』雑喉潤(東京書籍)

荀彧の死の真相など、独特の切り口で面白いです。



『曹操―魏の武帝』石井 仁(新人物往来社)

三国志、後漢書、資治通鑑をもとにした、

三国前史もしくは曹操に関するなかでは、

現在もっとも詳細な内容ではないかと思います。

学術的ではありますが、読み応え十分です



『三國志曹操伝』塚本 青史 (光栄)全3巻

読み応えあります。

塚本さんの本は一部では酷評もありますが、

曹操伝はそれこそいっぱいありますが、最近では逸品かと・・。

1400ページの力作です。

熱中したら、夢に出てきそうです。



呉がご贔屓なら、小説ですが・・。

『呉三国志長江燃ゆ』伴野朗(集英社文庫)全10巻

呉を主人公としたことには拍手を送りたいですが、ちょっと長い。

また、10巻の途中まで孫権が生きています。

孫権死後ももう少し書いて欲しかったです。



『三国志きらめく群像』面白いですね。



最近読んだ書籍でご紹介となると・・・。



『三国志曼荼羅』井波律子(岩波書店)



『三国志の女性たち』渡邉義浩・仙石知子(山川出版社)



『もう一つの三国志「演義」が語らない異民族との戦い』

坂口和澄(本の泉社)



あくまで私の好みです。合う合わないはご勘弁を・・。



《追記》

mokonavyさん。

三国志と乱世の詩人はいい本ですね。

mokonavyさんは詩がお好きだから、

回答されるとしたら挙げられるかもって思いましたよ。

「異民族」本、正直だなぁ、黙ってればいいものを・・。

あれっと思っても、そんなに度量の狭い男ではありませんよ。








あらまあ。

frogman03544さんが挙げられた書籍、一冊も持っておりません…(爆)。

うむ。世の中って広いなあ…( ̄∀ ̄;



では、私が持っている書籍を挙げましょう。



『三国志が面白いほどわかる本』

(中経出版/三宅崇広/2004年/税別定価1400円)

『三国志 軍師34選』

(PHP文庫/渡邉義浩/2008年/税別定価648円)

『三国志 武将34選』

(PHP文庫/渡邉義浩/2009年/税別定価648円)

『三国志演義のウソとタブー』

(別冊宝島編集部・編/宝島社/2009年/税込定価600円)

『いっきに読める三国志』

(PHP研究所/島崎晋/2009年/税別定価1600円)

『正史三国志 英雄奇談』

(角川学芸出版/坂口和澄/2009年/税別定価1800円)

『図解 三国志』

(西東社/渡辺精一/2010年/税別定価720円)

『三國志逍遙』

(山川出版社/中村愿/2010年/税別1900円)



今パッと出てくるのはこんなトコでしょうかね。基本的にどれも三國志全般を扱ったもので、特に魏のみを取り上げたものではないので、そこはご了承下さい。

ちなみにここに挙げた書籍は、全て去年から今年にかけて購入したものです。各書に初版の発行年も記してますが、現在でも手に入ると思います。



初版発行が古い本でも買って構わないと思いますよ?三國志の研究や考察って基本的にそう大きくは変わっていないと思いますし、『三国志実録』も名著だと聞いています(残念ながら未読ですが)。『三国志 きらめく群像』もそんなに新しい本ではないですし(2000年初版)。



質問者さんは呉蜀はあまりお好きではないようですが、魏呉蜀あってこその三國志ですし、三國それぞれドラマがあり歴史があり、それを深く掘り下げる作業もまた楽しいもんですよ。







frogman03544様と被らないものを紹介します(^^)(私が読んだもので)



①三国志曹操伝(中村 愿)新人物往来社2200円(H19.3.10発行)

②三国志と乱世の詩人(林田愼之助)講談社1600円(H21.9.29発行)



私は別に三国志であれば何でも好きなのですが、とりわけ曹丕が好きなので「詩」は外せません。

ダイレクトに心や思いを知れるので(他人の評価を通じてではなく)。

①は勿論曹操について沢山載ってますが、②も曹操の詩が記載されてますし、曹操の周囲の人や環境。それらも感じることが出来るものなので…。個人的にはオススメです(^^)



frogman03544様が坂口さんの「異民族」本を購入されたのであれば…(汗)私の異民族ネタがバレバレですね(T▽T)にゃはは…

「三国志の女性たち」もですねぇ…(汗)正史と演義の差を見るのが好きなので(^^)



追記…異民族本は本気で沙摩柯をあれこれ調べようとしたのですよ。結果は、沙摩柯自体の資料や文献が無いから無意味なのですが、おかげ異民族について勉強できたので、買って悔い無しの本でした。

同じく坂口さんの「正史三国志英雄奇談」もオススメです(^-^)

三國志の呂布は曹操に縛り首にされて殺されたんですか?

三國志の呂布は曹操に縛り首にされて殺されたんですか?







先の回答者さんの補足です。

この処刑を「縊り殺し(くびりころし)=絞め殺し」といいます。

その後、陳宮、高順と共に晒し首となり、

許に送られ埋葬されたとされます。



ちなみに、

「三国志呂布伝」→「縊殺布(略)梟首送許」

「後漢書呂布伝」→「縊殺之、傳首許市」

「三国志演義」→「操令将呂布縊死、然後梟首」

と書かれてあります。



「梟首(きょうしゅ)」とはさらし首にすること。








ほかの人が 答えてくれた描画が 漫画「蒼天航路」に載ってます。こちらは縄ではなく、鎖になってますが だいたいこんな感じだっただなと思ってください。







体を縛られた状態で頸に縄を巻きつけて縄の両側から思い切り人力で引っ張られました。

次の文の書き下し文を教えてください。 読みがなも書いていただけるとありがたいで...

次の文の書き下し文を教えてください。

読みがなも書いていただけるとありがたいです。

文字化けを防ぐため、旧字は直しています。




三国志演義 第三十八回『定三分隆中決策戦長江孫氏報仇』



玄徳待孔明如師、食則同床、寝則同榻、終日共論天下之事、、、





正史三國志・諸葛亮伝



於是与亮情好日密。関羽、張飛等不悦、先主解之曰



↑水魚の交わりのところです。

お願いします。







玄徳、孔明を待(ま)つこと(注、もてなすこと)師の如く、食(くら)へば則ち床(音シャウ、腰掛け)を同じうし、寝(い)ぬれば則ち榻(音タフ、寝台)を同じうし、終日(シュウジツ)共に天下の事を論じ、、、



是(ここ)に於いて亮と情好(ジャウカウ)日(ひ)に密(ミツ)なり。関羽・張飛等悦(よろこ)ばず。先主(センシュ)これを解(と)きて曰はく、

2012年3月9日金曜日

三国志の人物伝みたいなものはないんでしょうか できれば小説

三国志の人物伝みたいなものはないんでしょうか

できれば小説







◎坂口和澄『三國志群雄録』(徳間文庫)

…100名余りの人物伝(1人につき3~10ページ)で、正史と演義の異同をも示し、読みごたえあり。私にはこれで十分です。



◎渡辺精一『三國志人物事典』[上][中][下](講談社文庫)

…以前はこれの全1巻本を持っていました。1000ページぐらいあり、正史・演義の両方を詳しく解説。至れり尽くせりですが、私には詳し過ぎて…。



◎陳舜臣『諸葛孔明』『曹操―魏の曹一族』(中公文庫)

…小説ですが等身大の人物を描いていると感じます。薦めます。

オススメ三国志を教えて下さい!

オススメ三国志を教えて下さい!

三国志が好きで、今までいろいろなものにざっと手を付けたのですが、なにぶん種類も多いので次は何に手をつけようか迷っています。

本やゲームなどに限らず、みなさんのオススメ三国志をぜひ教えて下さい!

以下が私がいままで触れた三国志作品です。

これら以外でお願いします。



<本>

・吉川三国志

・北方三国志

・横光三国志

・三国志演義

・正史

・諸葛孔明(陳舜臣)

・柴練三国志

・弱虫泣き虫諸葛孔明

・三国志男

・天の華地の風

・三国志 (図解雑学)

・諸葛孔明(図解雑学)

・蒼天航路

・白井三国志

・時の地平線

・一騎当千

・呂布子ちゃん

・アレ国志

・SWEET三国志

・三国志に聞け!

・横山光輝三国志大百科



<映像>

・横光三国志アニメ

・人形劇三国志

・中国ドラマ三国志

・レッドクリフ

・一騎当千

・劇場版アニメ

・呂布子ちゃん

・恋姫無双

・日本テレビのアニメ(アイシャドー孔明の)



<ゲーム>

・三國無双シリーズ

・三國志戦記

・三國志シリーズ



<サイト>

・曹洪の三国志

・英傑群像



<三国志?>

・ジャイアントロボ-地球が静止する日-(アニメ、マンガ)

・青春の尻尾



※ジャイアントロボなど、三国志とは言い切れないけど関わりがある、中国の衣食住の資料本など、三国志に想いを馳せられる作品もおもしろければ歓迎です!

※当方MACユーザーなので、ネットゲーム、PCゲームなどはできません。







ランペイジと覇LORDは如何ですか?

恋姫無双等人物が本来男性が女体化してるのに抵抗を感じないなら是非どうぞ。

あと前の回答者が言っていました三国志大戦もオススメです。

しかし最初のほうは初心者狩りが多いので気をつけて。

他にも

スーパー歌舞伎の三国志シリーズとか

京劇とかは如何ですか?

(ただし公演日は私はわかりません。)

あ、そういえば

反三国志とか花関索伝もあります。








吉川三国志、横山光輝三国志→十八史略→北川三国志、蒼天航路ときて、園田三国志(漫画)はいかがでしょうか?

三国志はジャンルも広く、作品によってとらえ方が様々です。 これが真実ということで決め付けるのではなく、色々と読み比べてみて、自分なりの解釈で想像を広げると良いのでは。 ちなみに園田三国志にはド肝を抜かれます。 孔明と陸遜ファンはつらいかも。。。







『龍狼伝』という漫画も是非どうぞ。確か講談社コミックだったはずです。ブックオフなどの古本屋で容易に見つかると思います。内容は三国志にオリジナル要素を組み込んだ感じです。







ジャンルが広すぎですね、すばらしいです。でも「宮城三国志」、「曹操(宮城 著)」、「秘本三国志」、今、テレビで放送している「蒼天航路」など、魏が主役になっている本をさらに読めばどうでしょうか?







「天の華~」や「白井三国志」まで入っている辺り、多岐に渡っていて本当に凄いです・・・。

この他に思い浮かぶものというと、



「ブレイド三国志」(マンガ・ガンガンコミックス)

「DRAGONSISTER!-三國志 百花繚乱-」(マンガ・ブレイドコミックス)完結済



くらいしか思い浮かびません・・・。

後はPHP文庫か新書で三国志武将の小説が幾つかあったような・・・(「呂蒙」は読みました)。





そういえば、反三国志はGAMECITY文庫で「超三国志」と名前を変えて発行されてます。講談社版と両方持っていますが、読みやすいのはGAMECITY版だと思います。







本宮ひろ志氏の『天地を喰らう』などはどうでしょうか?

漫画以外では、過去にファミコンやアーケードにてゲーム化もされてます。

ただし、アーケード2作目はサブタイトルを『赤壁の戦い』としておきながら、魏延や黄忠が使えたり敵に呂布が出てきたりと一部「?」な部分もありましたが。







十分すぎる....

恋姫無双まで見たのか...

俺なんてこの5分の1ぐらいしか見て無いよ



ひとつ見つけた、

三国志大戦が無いですよ。

カードゲームのやつです

DSでも出てますよ。



あと三好 徹の「三国志外伝」ぐらいかな?

本です。結構おもしろかったですよ



あとは恋姫無双のゲームか?

エロゲだけど。







これだけ読んでいたら十分ですよ。



私は、メディアファクトリーが出している三国志の漫画がお勧めです。作画は李志清、香港の漫画家だとか。原作は寺島優です。絵がきれいなのと、三国志のストーリーをざっと見渡せるような構成で初心者向けです。全十五巻です。

三国志の武将伝 小説を教えてください PHPから出ているのは一通り買ったのです...

三国志の武将伝 小説を教えてください

PHPから出ているのは一通り買ったのですが

他におすすめはないですか







こんなのでどうでしょうか?



趙雲伝/大場惑(コーエー)全4巻

周瑜伝/今戸榮一(コーエー)全2巻

◎諸葛孔明/陳舜臣(中公文庫)全2巻

仲達/塚本 青史(角川書店)司馬仲達主役、単行本です。

◎曹操.魏の曹一族/陳舜臣(中公文庫)全2巻

三国志の英傑.曹操伝/守屋洋(学研M文庫)

三国志曹操伝/別冊宝島編集部(宝島社文庫)

◎三國志曹操伝/塚本 青史 (光栄)全3巻



◎泣き虫弱虫諸葛孔明/酒見賢一(文藝春秋)2巻刊行中

(お勧めです。面白いです。)



何人かの短編集としては・・。



◎曹操残夢.魏の曹一族/陳舜臣(中公文庫)

公子風狂―三国志外伝・曹操をめぐる六つの短篇/藤水名子(講談社文庫)

孫策の死/伴野朗(集英社文庫)三国志関係は孫策の1編のみ。



◎三国志外伝/三好徹(光文社文庫)

◎三国志傑物伝/三好徹(光文社文庫)

◎逸話で綴る三国志/坂口和澄(徳間文庫)



短編集は結構マニュアックな選考ですが、1人1~40ページなので

おやつ代わりに軽く読めますよ。



曹操は一番人気ですね。小説ではありませんが・・・。

曹操・三国志の奸雄/竹田晃(講談社学術文庫 )

覇道三国志―曹操の壮心やまず―/雑喉潤(東京書籍)

◎曹操―魏の武帝/石井 仁(新人物往来社)

少年曹操/草森 紳一(文藝春秋)

◎関羽伝/今泉恂之介(新潮選書)



◎個人的にはお勧め、書店で捲って質問者さんが判断してくださいね。

三國志の小説や書物の種類で劉備以外を主人公にした書物はありますか? 例えば趙雲...

三國志の小説や書物の種類で劉備以外を主人公にした書物はありますか?

例えば趙雲伝や馬超伝みたいな感じで…







いりいろありますよ。



単独での小説としては・・。



荀彧/風野真知雄(PHP文庫)

関羽/菊池道人(PHP文庫)

張遼/桐谷正(PHP文庫)

孫策/加野厚志(PHP文庫)

呂蒙/芝豪(PHP文庫)

周瑜/菊池道人(PHP文庫)

馬超/風野真知雄(PHP文庫)

龐統/立石優(PHP文庫)

陸遜/太佐順(PHP文庫)

諸葛亮/狩野直禎(PHP文庫)

[実説]諸葛亮ある天才軍師の生涯/守屋洋(PHP文庫)

趙雲伝/大場惑(コーエー)全4巻

周瑜伝/今戸榮一(コーエー)全2巻

諸葛孔明/陳舜臣(中公文庫)全2巻

曹操.魏の曹一族/陳舜臣(中公文庫)全2巻

三国志の英傑.曹操伝/守屋洋(学研M文庫)

三国志曹操伝/別冊宝島編集部(宝島社文庫)



泣き虫弱虫諸葛孔明/酒見賢一(文藝春秋)2巻刊行中

(お勧めです。面白いです。まだ続きます。)



何人かの短編集としては・・。



曹操残夢.魏の曹一族/陳舜臣(中公文庫)

(曹操死後、魏滅亡までの曹一族の物語を収録してます。)

三国志軍師34選/渡邉義浩(PHP文庫)

三国志外伝/三好徹(光文社文庫)

三国志傑物伝/三好徹(光文社文庫)



短編集は結構マニュアックな選考ですが、1人1~40ページなので

おやつ代わりに軽く読めますよ。








中国にはTVドラマ化もされている「呂布と貂蝉」、「曹操と蔡文姫」があります。

日本語訳が出ているかどうかは判りません。

しょっちゅうドラマ化されているので列伝は沢山ありそうです。

三國志関係の書籍で、蜀以外がメインの本を探しています。 漫画・小説どちらでも構...

三國志関係の書籍で、蜀以外がメインの本を探しています。

漫画・小説どちらでも構いません。

【蒼天航路】【正史魏伝】【正史呉伝】【呉三國志】は読破済みです。

他にあったら、是非教えて頂ければと思います。







三好徹 興亡三国志

宮城谷昌光 三国志

陳舜臣 曹操 魏の曹一族

陳舜臣 曹操 残夢

でしょうか

蜀がお嫌いなら

酒見賢一の泣き虫弱虫諸葛孔明が笑えましたが、、、








伴野朗「呉・三国志」

今戸栄一「超・三国志 周瑜伝」

などいかがでしょう?







陳舜臣先生の「秘本三国志」は曹操がメインです。

コーエーの携帯アプリで下記のうちどれが一番面白いと感じましたか? 三国志でも信...

コーエーの携帯アプリで下記のうちどれが一番面白いと感じましたか?

三国志でも信長でも面白ければ良いです。


月額525円かかる/かからない、は不問ですが、面白さ以外に出来るだけ軽いほうがいいな…

良ければ詳細も添えてお返事頂ければ嬉しいです。

尚、これは面白かった!以外に「これは私はあんまりだった…」という意見も参考になるので教えて頂ければ幸いです。



信長の野望・タクティクス

信長の野望・天翔記

信長の野望・戦国群雄伝

信長の野望・覇王伝

信長の野望・武将風雲録

信長の野望・全国版

信長の野望

三國志孔明伝

三國志英傑伝

三國志タクティクス

Mobile三國志4

Mobile三國志3

Mobile三國志2

Mobile三國志

三國志2

三國志







三國志タクティクス・Mobile三國志4・Mobile三國志2・三國志2・三國志をやりました。(三國志は現在も)



三國志、三國志2は1日1ターンのネットゲームです。なので物足りなさを感じるかもしれません。

ネットゲームですから他プレーヤーの方がゲーム内にがいます。

三國志の場合、掲示板がありそこで交流します。ですが実際はフレンドメール(無料)をつかってやり取りしている感じです。

三國志2は・・・よくわかりませんでした。



三國志タクティクスは戦闘をして武将を成長させるゲームです。成長させるといってもレベル上げて武器等装備させるだけですが。

戦闘をするとポイントが貯まり、ポイントを消費して武将や武器、アイテムを獲得できます。

はじめの方は多少面白いですが、だんだん作業ぎみになってきます。



Mobile三國志4・Mobile三國志2はシュミレーションゲームです。

面白さはMobile三國志4>Mobile三國志2でした。



一番面白かったのは・・・どれもいまいちでしたね。・・・・・強いて言うなら三國志です。



ここには載っていませんがkoeiのMobile真・三國無双は結構はまりましたよ。

敵がかたくて爽快感はありませんが。。。

対戦モードが面白かったです。



長々と失礼しました。

三國志について質問します。赤壁の戦いに於いて孔明が東南の風をおこし、火計によ...

三國志について質問します。赤壁の戦いに於いて孔明が東南の風をおこし、火計により、曹操軍は壊滅したと演義ではありますが、果たしてそうなんでしょうかね?







三国志演義ではそうですよね。正史では呉の国のだまし討ちと疾病の流行で魏の軍勢は退却したということになっているらしいですよ。



周瑜の部将の黄蓋は、敵の船団が互いに密集していることに注目し、火攻めの策を進言した。そして自ら曹軍に対し偽りの降伏を仕掛け、曹軍が油断した隙をつき、油をかけ薪を満載した船に火を放ち敵船に接近させた。折からの強風にあおられて曹操の船団は燃え上がり、炎は岸辺にある軍営にまで達した。船団は大打撃を受け、おびただしい数の人や馬が焼死したり溺死したりした。



『三国志』呉書周瑜伝の注に引く『江表伝』には、この時、周瑜らは渡渉し陸上から曹操の陣に追撃をかけ、曹操軍は潰走したと書かれている。



『三国志』蜀書先主(劉備)伝には、「劉備は孫権陣営の周瑜・程普らと力を合わせ、赤壁で曹操を大いに破り、曹操軍の軍船を燃やした」と書かれている。



『三国志』魏書武帝(曹操)紀の原書には、「公(曹操)は赤壁に到着し、劉備と戦うが、不利」としか書かれていない。『三国志』魏書武帝紀の注に引く『山陽公載記』には、「曹操は軍船を劉備に焼かれ、徒歩で撤退した」と書かれている。



曹操は敗残兵をまとめて撤退した。疫病で曹操軍の多くの役人・士卒が亡くなった。『三国志』呉書呉主(孫権)伝には、曹操軍の敗残兵の大半が飢えと病で亡くなったと書かれている。



周瑜・劉備らは更に追撃し、南郡まで兵を進めた。曹操は慣れない江南の地で疫病の流行に悩まされたこともあり、江陵を曹仁に、襄陽を楽進に託し、自らは北方に撤退した。








「武帝記」(魏)には

「陣内に疫病が大流行し、多数の死者を出した為にやむなく兵をひき帰還した」と。

これは「呉主伝」(呉)にも「先主伝」(蜀)にも同じ述懐があります。



では、疫病とは何か。

それは長江に生息する巻き貝(諸々の貝類)を媒介とする寄生虫による風土病です。

症状は重く、抵抗力の乏しい者は死に到るそう。

主に戦線で奮闘していた孫権軍は長江の海産物を食べ慣れて免疫があり無事だったのです。

そこで周瑜(時の司令官)は炎上させた船を曹操軍にぶつけ(南東の風も加え)大火計をもって打ち破ったのです。







正史では詳しい記述がありません、曹操(魏)軍に風土病が流行り火を放ったという説もあり本当に孫権・劉備(呉・蜀)連合軍が火攻めを仕掛けたのか分かりません。







孔明の出番を省けば、大体があっているのですが、



ある記述には、疫病の流行で士気が低下し、軍船に死体を載せて燃やし、撤退したと書かれていました。



これが負け惜しみなのか真実なのかは定かではありませんが、



ここからは推測ですが、元々撤退寸前だった曹操に周瑜が攻撃を掛け、その戦いを見ていた曹操が、士気が低すぎて、戦いを継続出来ないと判断して、撤退したのではないでしょうか。



どれが正解かは定かではないというのが現状ですね…(汗)







そうですよ^^



中国の三国志歴伝4の記載にあります。





演技も忠実に歴伝に沿って作られて、

人の性格までもが綴られているみたいです。

【三國志孔明伝】関羽が死なない方法わかる人いたら教えて下さい。 ちなみに敵を全...

【三國志孔明伝】関羽が死なない方法わかる人いたら教えて下さい。

ちなみに敵を全滅させたけど無理でした







懐かしいゲームですな

関羽を麦城で、生き残るためには

概要ですが、

まず、(長い)プロローグで、徐庶を怒る。

ほう統に手紙を出さない。

益州平定戦で、ほう統を救う。



これで、麦城に援軍に行けます。ここで、退却しなければ、生き残る。

関羽以外もね。



益州平定戦でほう統を救うのは、結構大変です。

まず、巴里を14ターン以内で終わらせる。

すると、援軍が早くなります。



益州平定戦には、劉備、劉封、黄忠の固定です。

また、援軍になるのは、孔明、張飛、趙雲、厳願、馬謖の固定です。

救い方ですが、孔明がほう統の地点まで着くのに、3-4ターンかかる。

なので、ほう統が、自身を補給するのが、MUST.

自身を補給か、他を攻撃かの判断プログラムですが、

自身の耐久残りより、他を退却させるのが、優先みたい。

つまりは、まわりを攻撃したら、ターン内に退却させてしまうこと。

耐久ちょっと残りの敵を周辺に存在させない事。



麦城に救援に行くのは、孔明、黄忠、馬謖の3人。固定。

なので、レベルを上げて、良い武器を持たそう。

関羽には、三略を持たす。

麦城救援の出現タイミングなのですが、

関興、関策が隣接の敵を退却させて、中央の村に近づくと登場します。

試しに、隣接の敵を退却させずに、中央の村に近づいたら、救援では無く敵の伏兵が現れた。。。



麦城で、退却した武将は、その後、出てこない。

運が良ければ、周蒼と関平は、残せる。



麦城の後、糜竺、劉封は、消える。



関羽が生き残ると、張飛と劉備も生き残る。

ただ、活躍の舞台はほとんど無い。

なので、武器、道具は、取り上げておく事。

南征が終わると、三人とも消えるが、

そのとき、関家と張家は、レベルが5、上がる。

同時に黄忠と厳巌も引退するが、武器(三尖刀,楚琴弩)が手に入る。

三尖刀は、関羽が死んでも、手に入ったような。

今後発売されるPSvitaのカセット(ソフト)をほぼ全部教えて下さい。 また、開発中の...

今後発売されるPSvitaのカセット(ソフト)をほぼ全部教えて下さい。

また、開発中のソフトも教えてくれると嬉しいです。







PSVITA本体発売同時ソフトウェアラインナップ



(仮)は(仮称)です。



BLAZBLUE CONTINUUM SHIFT EXTEND

Project N.O.E.L.S. (仮)

ブラウザ三国志 タッチバトル(仮)

FISH ON(仮)

アルティメット マーヴル VS. カプコン 3

真・三國無双 NEXT

F1 2011

地獄の軍団

ロード オブ アポカリプス

忍道2 散華

パワースマッシュ4

アンチャーテッド -地図なき冒険の始まり-

サワリ・マ・ク~ル

みんなといっしょ

みんなのGOLF 6

勇者のきろく(仮)

モンスターレーダー

@field

真かまいたちの夜 11人目の訪問者(サスペクト)

ドリームクラブZERO ポータブル

ニコニコ(動画閲覧等。ユーザー生放送配信にも対応予定)

魔界戦記ディスガイア3 Return

塊魂 ノ・ビ~タ

リッジレーサー(仮)

ダーククエスト(仮)

MICHAEL JACKSON THE EXPERIENCE HD(仮)







国内開発中ソフトラインナップ(どれぐらい本物かはわかりません)



モンスター大百科(仮)

パチパラシリーズ(仮)

未定(株式会社アクアプラス、ダンジョンRPG)

墨鬼 SUMIONI

MALICIOUS(仮)

SRPG(仮)(株式会社アルファ・ユニット、SRPG)

ドラゴンズクラウン

真・女神転生シリーズ

ペルソナ4 ザ・ゴールデン

MAPLUSポータブルナビ4(仮)

FIFA (仮)

未定(加賀クリエイト株式会社、恋愛アドベンチャー)

未定(加賀クリエイト株式会社、シューティング)

新規タイトル(株式会社ガスト、新ジャンル)

ストリートファイター X 鉄拳

ラグナロク オデッセイ(ガンホー・オンライン・エンターテイメント株式会社、アクション)

未定(ガンホー・オンライン・エンターテイメント株式会社、アクション)

未定(ガンホー・オンライン・エンターテイメント株式会社、アクションパズル)

しろつく

新作シューティング(株式会社ケイブ、シューティング)

NINJA GAIDEN Σ

アスファルト インジェクション

ARコンバットデジQ

王と魔王と7人の姫君たち ~新・王様物語~

サッカータイトル

ZONE OF THE ENDERS HD EDITION

麻雀格闘倶楽部 新生・全国対戦版

METAL GEAR SOLID HD EDITION

野球タイトル(株式会社コナミデジタルエンタテインメント、スポーツ)

DJ MAX TECHNIKA PORTABLE

三極姫~三国乱世・覇天の采配~

出撃!!乙女たちの戦場2~天翔ける衝撃の絆~

戦極姫3~天下を切り裂く光と影~

萌え萌え大戦争☆げんだいばーん ++

銀星囲碁(仮)

銀星将棋 風雲龍虎雷伝(仮)

ファイナルファンタジーX(リメイク)

スーパーモンキーボール(仮)

Escape Plan(仮)

GRAVITY DAZE/重力的眩暈:上層への帰還において、彼女の内宇宙に生じた摂動

サウンドシェイプ(仮)

STARSTRIKE DELTA

リアリティーファイター

リトルビッグプラネット(仮)

WipEout2048

極限脱出ADV 善人シボウデス

スロッターマニアV

ハローキティといっしょ ブロッククラッシュV

イース セルセタの樹海

大都技研公式パチスロシミュレーターシリーズ(仮)

ニコリの数独 ~完全版~(仮)

機動戦士ガンダムシリーズ(仮)

スーパーロボット大戦シリーズ(仮)

テイルズ オブ イノセンス R

アニメ アクション(仮)

RPG(仮)(フリュー株式会社、RPG)

リトルバスターズ! Converted Edition

未定(ポリゴンマジック株式会社、アンドロイド コミュニケーター)

新作アクションRPG(仮)(株式会社マーベラスエンターテイメント、アクションRPG)

新作アクションゲーム(仮)(株式会社マーベラスエンターテイメント、アクションアドベンチャー)

新作シミュレーションRPG(仮)(株式会社マーベラスエンターテイメント、シミュレーションRPG)

新作ファンタジーRPG(仮)(株式会社マーベラスエンターテイメント、アクションRPG)

東大将棋シリーズ

麻雀覇王シリーズ

未定(株式会社MAGES.(5pb.)、アドベンチャー)

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