2012年3月11日日曜日

質問-35 三国時代の旧正月について

質問-35

三国時代の旧正月について

日本では残すところあと1週間で平成21年が終わります。

今年もいろいろあって激動でした。

年賀状は書き終わりましたか?

中国は旧正月を祝うんですよね。2月3~5日でしたっけ?



ところで、今から1791年前、西暦220年建安25年は後漢最後の年、

3月に改元されて延康元年になるわけですが、

当時の旧正月というのは、やはり大々的にお祝いしていたんですか?

お目出度い書とか絵を飾ったりする習慣は当時あったのでしょうか?

(220年は献帝も正月どころではなかったと思いますが)



誕生日とか言う習慣はまだ無かったようですから、

感覚的に、旧正月(歳首)を迎えて、

自分の歳も一つ加えるようなイメージがあるんですが、どうなんでしょう?



例えば、君主からお年玉的なものが、

配られたりということがあったりしたのでしょうか?



うちの子供は二人とも社会人になりましたので、

お年玉は孫が生まれるまで必要ありません。

先日、息子から逆にお年玉あげようかなんていわれて、

丁重にお断りしました。







…もう何書いても誤回答になってしまいますね( ̄∀ ̄;



ひとつだけ。

建安から延康への改元は3月ではなく1月末から2月初旬のはずですよ。曹操が薨去し曹丕が魏王を継いだ直後だったはずです。

(ちくま訳八巻の年表上は1月になってます)

当時の改元は翌年の年明けから適用というのが慣例ですが、建安25年をキャンセルして年始から延康元年としたのか、1年待って翌年正月から延康にする予定が漢魏革命により翌年が黄初(魏王朝の年号)、年内が延康となったのかは定かではありません。



年初には新年を祝いますが、jiitanioさんがお詳しすぎるので私にはもう何も書けません(^_^;

蛇足的なエピソードを挙げます。

『三國志』魏書朱建平伝に夏侯威の寿命を占った記事があり、占いに出た通りに夏侯威は病を患います。49歳の12月上旬に病気になり、下旬には快方に向かいますが、30日夕方に容態が急変し未明に死去します。

この時の夏侯威の言葉に「明日の鶏鳴になればもう50だ(朱建平の指摘した災いは過ぎた)」と語った記述があります。この記事から、当時の年越し(と加齢)のタイミングが日没ではなく夜明けだった事が分かります。



本当に蛇足です(^_^;








日本は「もういくつ寝るとお正月」ですね。

中国は旧暦元月初一(旧正月)を祝うので、新年ムードはまだまだです。

新暦1月1日は休日ですけど、まあ、普通の休日って感じですね。

今年は新暦2月2日が除夜(中国語では「除夕」)、2月3日が春節です。

2009年は新暦1月25日が除夜、26日が春節で、1月に2回新年を祝えて得した気分でした(私だけ?)。



現在、旧暦元月初一を「春節」と言っていますが、この名称が確定したのは中華民国以降のことで、それ以前の「春節」とは立春のことを指したとも言います。

農民にとっては正月より立春の方が大事な節目だったのでしょう。

通常、旧正月と立春は近いので(だいたい前後10日位)、民国時代以降、名称の変更が比較的容易に受け入れられたのかもしれません。

正月は数えで1歳増える日ですが、それよりも「古い一年から新しい一年に変わる日」という意味合いの方が大きく、現在でいう誕生日的な位置付けは無かったと思います。

「除夜」の「除」は「去」の意味で、「除夜」は「古い時間から去る夜」とされています。

1年間でとりついた悪運を除くため、魔除けの儀式等も行われたようです。

年末大掃除はこの名残かもしれません。



後漢から三国時代、旧正月は何と呼ばれていたかですが、

「歳旦」「正旦」「正日」「元辰」「元日」「元首」「歳朝」

等という名称が有ったようです。

清代になって

「元旦」「元日」

という名称が確定したようです。

(現在の中国では「元旦」は通常、新暦の正月を指します)



春節の行事ですが、後漢崔寔の『四民月令』という農書に詳細が書かれているようです(原文は未確認です)。

大意はこんな感じです;

正月になったら酒を神様に勧めて降臨を祈ります。その後、尊卑大小の区別なく家中のものは全て、先祖の前に座り、子、孫、曾孫が家長にお酒を勧めます。

また、新年になったら君、師、親戚、父の友人、知人、村や町の幹部にあいさつ回りに行きます(これを「拜年」といい、現在でも行われます。私も留学時代、先生の家を訪問して回りました)。



宮中では漢代から宴会が開かれていました。

『晋書志第十一礼下』の記述です。

「漢儀有正会礼,正旦,夜漏未尽七刻,鐘鸣受賀,公侯以下執贅夹庭,二千石以上升殿称万歳,然後作楽宴飨。魏武帝都鄴,正会文昌殿,用漢儀,又設百華灯」

漢代の儀礼では正月になると、まだ夜が完全に明けないうちに鐘が鳴り、朝賀が始まったようです。公侯以下、臣下が貢物を持って朝廷に集まり、二千石以上のものは殿上で万歳を称えました。その後、宴会が始まります。

魏武帝は鄴都文昌殿で漢の儀礼に則って朝賀会を行い、百華灯を設けたそうです。



元の『文献通考第百六王礼考一』に「貢物」に関する記述が有ります。

「公、侯璧,二千石羔,千石、六百石雁,四百石以下雉。」

公侯は璧、二千石は羔羊(子羊)、千石、六百石は雁、四百石以下は雉だったようです。



『文献通考』には行事の詳しい内容も有りました。

簡単に説明すると;

三公が璧を献上するため殿に上り、北面して席に座ります。太常が祝辞を述べ、三公が伏します。皇帝が席に着いたら、璧を献上します。その後、百官が杯を持ち皇帝に酒を勧め、司空が羹、大司農が飯を奉上し、食事をする時の音楽が演奏され、宴会が始まります。

宴会は日が暮れるまで行われたようです。

(『文献通考』には更に細かい内容が書かれていますが、省略させていただきます。

http://www.confucianism.com.cn/detail.asp?id=13543

真ん中よりちょっと下辺りです)



どうやら皇帝から臣下に「お年玉」を出すのではなく、臣下から皇帝に貢物を献上したようですね。



皇帝から臣下へは

「諸侯王朝見天子,漢法当四見。始到,入小見;到正月朔旦, 奉皮荐璧玉賀正月,法見;後三日,為王置酒,賜金銭財物;後二日,復入小見, 辞去」

とあります(『文献通考』より。おそらく『史記』からの引用です)。

諸侯王は4回皇帝に会うことになっていて、1回目は都に入った時、2回目は新年の朝賀の時、3回目はその3日後、王のために酒宴を設けた時、最後はその2日後、国に帰る時です。

3回目の宴会の時に「金銭財物」を下賜したようです。

他の臣下に対しても、正月の宴会の席ではなく、後日に金銭財物が下賜されたと思われます。

具体的な数量はちょっとわかりませんでした。



民間のお年玉(中国では「圧歳銭」といいます)は漢代には有り、元々は魔除けの意味が有ったらしいです。

詳しく書けばきりが無いのですが、そろそろ字数が無くなるので、これにて・・・。







少し時代が後になりますが、『荊楚歳時記』等を見ますと、暗い内から百官は松明を掲げて宮中に出仕し、夜明けとともに皇帝を迎えて朝賀の儀が行なわれました。

それが終わると帰宅し、爆竹(今の火薬を詰めたものではなく、青竹を火にくべてはぜるもの)を鳴らして悪鬼を払い、門には画鶏や桃の板を掲げて邪を払いました。

また、家族揃って衣冠を正し、椒柏酒(山椒とビャクシンを配合した香りの強い酒)を進め、桃湯を飲み、屠蘇酒・膠牙湯(固い飴・歯を丈夫にすることを願う)を進め、五辛盤(にんにくなど五種類の刺激の強い植物で邪気を払う)を食べた…等の記録があります。



ところで、この時代は旧暦ですから「旧正月」などありません。1月1日が正月です(それが今の季節では2月上旬です)。

裴松之の注について。賈詡伝だけちょっと感情的ではありませんか?あとまったく関...

裴松之の注について。賈詡伝だけちょっと感情的ではありませんか?あとまったく関係のないことも長々書いてあるし・・・

確かに長安動乱の基をつくった人物ではあるのですが・・・

皆様はどう思われますか?







たしかに、感情的というか、

裴松之の主観と、陳寿の評との違和感はありますね。



『三国志』裴松之注の執筆動機は、

仕えていた劉宋の文帝から

「『正史三国志』は正確な記述が多く、近世の良い歴史書だが、

ちと簡潔に過ぎるでいかん、ぬけているところもあるようだから、注をつけなさい」

と命令を受け、

その当時残っていた三国時代の史料を集めて注を作ったといわれます。



正史『宋書』の裴松之伝には

「上(劉宋の文帝)陳壽が三國志を注せしめ、

松之傳記を鳩集し、異聞を増広す。

既に成りて奏上す。

上、之を善して曰く、『此れ不朽為る矣』」と、あります。



その分量は約三十二万二千字という膨大なもので、

陳寿の著述方針のため、不採用になった記録を

裴松之は、自ら言うように、ピンからキリまで、

信憑性に関わらずに集めていったわけです。

その参考とした文献は二百数十種にも及びます。



この注には、信用できない資料もたくさん入っています。

そのことは裴松之も自覚しており、



注の完成を文帝に報告した上奏文(『上三國志注表』)で、

■陳寿が記録しなかった事で、記録に残すべきと思うことは、

全て取り入れ、その遺漏を補う

■ひとつの事柄について複数の記録がある時、

判断に迷うものでも全てを記述する

■それに明らかな間違いがあれば、指摘し訂正する

■本文の記述や、陳寿の著述に若干の個人的論評を行う

といっているほどです。



陳寿の正史本文と一緒に書かれているために、

しばしば混同しがちなため、

「いいかげんなことばかり書いてある。

勝手放題でまことにわずらわしい。」

と、唐の歴史家・劉知幾(りゅうちき)が著書「史通」で批判しています。



また、清の『四庫全書総目提要』では、

本文と関連性がない仙人などの、

あやしげな説話の引用をしていることが指摘されています。

裴松之は陳寿と違い、

「書いたものを見せられるとすぐ騙されやすい」

司馬遷タイプの歴史家であったともいわれます。



本文と注釈で話が食い違うことも多々あります。

自分で引用しといて

「この記述は出鱈目だ。話にならん」と、

自分でツッコミいれて憤慨してることもちょくちょくあります



さて、

【賈詡】は、ご存知のように、

董卓、李傕、段煨、張繍に仕えた後、

曹操の配下となり、曹魏2代にわたり重臣として活躍しますが、

機知に長ける参謀として、悪く言えば陰謀を巡らす曲者策士です。



曹操配下となる前に仕えた、

董卓以下の諸将は皆あまり評判のよろしくない連中です。

当然、主君の(悪い)評判は、

賈詡自身の評判にも跳ね返ってきます。



陳寿が賈詡に対して、

荀攸と共に「前漢の張良や陳平に次ぐ」と、

高い評価を与え、、

主君を換えながら処世術に長けて生き残った事実も評価しています。



主命を帯びて注釈を付ける裴松之が、

何でも詰め込む主義をとったこともあり、

簡潔を旨とした陳寿と対照的に、

賈詡の、多数あったであろう、

旧主君の影響をも受けた悪評を取りこぼさず、

本文と正反対に近い、

「(賈詡のような人物は)程昱・郭嘉らの伝と一緒に編入すべきであり

荀彧・荀攸と同列にするのは類別を誤っている」と、

厳しい評価したのも無理からぬことではなかったでしょうか。



裴松之の注は、賈詡に限らず、

陳寿の評価に反論する人物評も見受けられます。

賈詡がらみのエピソードが、

彼が策士である以上、基本的に行動が単純な部将達より、

どうしても捻くれた事実が多いため、余計に目立つのだと思います。



私は、賈詡さんあまり好きではありませんが、

彼の評価としては、年代的に近い陳寿の評に近い捉え方をしています。

三国志正史についてです 当時は一騎打ちは、ほとんどなかったはずです そこで本...

三国志正史についてです



当時は一騎打ちは、ほとんどなかったはずです





そこで本当にあったと思われる一騎打ちを教えてください





自分が知っているのは、




呂布対カクシ

馬超対閻行

ぐらいです

他にはどんなのがあるのでしょう?あと勝者も教えて下さいm(__)m













孫策と太史慈の一騎討ちは呉書太史慈伝の本文にありますね。

劉ヨウは太史慈を迎えたものの、偵察の任務しか与えませんでした。

太史慈が騎兵を1人だけ連れて敵情視察に向かった時、偶然に孫策と遭遇します。この時孫策は韓当・黄蓋・宋謙をはじめとした13騎を随行させておりとても挑める戦力差では無かったのに、太史慈はためらう事なく戦いを挑みます。孫策は太史慈の馬を突き刺し、太史慈がうなじのところにつけていた手戟を奪い、太史慈も孫策の兜を奪います。そこで敵味方の兵が集まってきて混戦状態になり、結局決着がつきませんでした。



つまり、引き分けたのではなく勝負をつけられなかったのです。



一偵察兵に味方の救援が来るのか…という疑問はあるでしょうが、当時の太史慈は同郷の劉ヨウの元に挨拶に来てしばらく留まっていただけの客将の身分であり、実は独立勢力の扱いです。その事実は太史慈の伝が劉ヨウや士燮(交州を支配していた群雄)と同じ巻に載録されている事からも見て取れます。

つまり、この一戦は「独立勢力のトップ同士がガチで戦った一騎討ち」であり、三國志どころか中国史上にもレアなケースです。



関羽と顔良の戦いは、個人的には一騎討ちではないと考えます。軍隊同士がぶつかり合った戦場での出来事であり、戦いのさなかに顔良の姿を認めた関羽が特攻をかけて顔良を討ち取ったというだけの話だと思います。

ついでに言えば、曹操が上表して授けた関羽の「漢寿亭侯」という爵位は「漢」の「寿亭侯」なのか「漢寿」の「亭侯」なのか「漢寿亭」の「侯」なのかはっきりせず、定説が定まっていないハズです。衍字(余計な文字)があるかも知れない…という説もあるようです。



ちなみに、呂布対郭シは呂布の圧勝、馬超対閻行はフルボッコで閻行の圧勝ですね(笑)。








kanshinshunjyuさんが既に良い意見を述べていますが、補足します。



三国志演義には創作が多く、下記のサイトによると有名な武将による一騎打ちの話は殆どが嘘の様です。



三国志の嘘>一騎打ちはなかった?

http://www.geocities.jp/fghi6789/gunji.html#ikkiuchi



三国志演義にみられるような、「敵の大将出てこい。俺と1対1で勝負しろ」みたいな試合形式の一騎打ちは基本的に存在しなかったようです。

但し、夏侯淵将軍の様に積極的に自ら先陣で奮戦し味方を引っ張るタイプの武将もいたので、そういう司令官同士が戦った場合には結果的には一騎打ちみたいになった事例がある可能性は有ります。



既に指摘がありましたが、孫策と太史慈の対戦については可能性はあると思います。

元々試合をするつもりで戦ったのではなく単に決着がつかなかった事を引き分けと言っているだけではないでしょうか。

孫策は勇猛で単独行動も多く、そのために結局殺されている事を考えても太史慈との対戦には特に不自然さはないと思います。







私の知る範囲では

「三国志」に記載:関羽対顔良、孫策対太史慈

注釈の書物に記載:呂布対カクシ、馬超対閻行

があります。



一級史料である陳寿の「三国志」に記述のあるものは、信頼して良いと思います。

「三国志」は事実を簡潔に書いており、派手な逸話がほとんど無い為、信憑性は高いと思われます。

逆に簡潔過ぎる為に、裴松之という人物が他の書物から逸話等を引用して注釈を作っていますが、こちらは一部に荒唐無稽な記述も目立つ為、三国志に比べて注釈部分の信憑性は劣ります。



個別の信憑性ですが、まずは関羽対顔良に関して。

当時は諸侯の下に関内候という定まった領地を持たない諸侯と言うべき爵位があり、大功を立てた家臣でも最初は関内候に取り立てられるのが普通でした。

にもかかわらず関羽は白馬の戦いの直後、無爵から一足飛びで諸侯になっており、曹操の厚遇ぶりを差し引いても、かなりインパクトのある功績を立てていると言う事であり、これが一騎討ちで顔良を討ち取った事と符合します。



孫策対太史慈に関しても、孫策は勇猛な上に軽率な振る舞いが多かったようなので、それ程疑わしいものでは無いかと思われます。また演義では数十合も打ち合ったとされていますが、正史では数合打ち合った所で、それぞれ味方が押し寄せた為に引き分けたとなっており、珍しい事ではあっても信憑性が無いとまでは言い切れないかと思われます。



他の呂布対カクシ、馬超対閻行に関しても、関わった人物が全員辺境出身の武辺者ですから、充分ありえる事と思われます。



結論ですが、注釈を含めてもたったの数件のみしか記述が無い事、またその後の史書にも一騎討ちの記述は散見されている事から、実際に一騎討ちがあった可能性は充分に高いと思います。







補足見ました。確かにどれも作り話の感じはしますね。でも戦場での一騎打ちでなければ少しは信憑性が出てくるのではないでしょうか?許褚VS典韋。三国志演技の中で描かれていますが、曹操ならやらせてみた可能性はあるかもしれません。







孫策と太史慈を忘れてはいませんか?

これは殆ど三国演義と変わっていません。結果も引き分けです。



あと、関羽が大軍のただ中を突っ込んで顔良の首を取ってきたという逸話も史書に残る事実であり、

これもなかなかブッ飛んだ・とんでもない話ですね。





【補足について】

引き分け、というのは、片方の部下があとからやってきたために、手打ちにして逃げた、という経緯だったはずです。

孫策と太史慈の気質(野心家、果断)を考えると、史書に記録が残るのも頷けるかなと思いますが。





極論をいってしまうと、全て「怪しい」というしかないですよ。

信憑性については、陳寿の本伝にある記述であれば、裴松之の注釈よりかは高いものでしょう。



武将を称えるために話を「盛ってる」ことは、実際ずいぶんあるのでしょう。真偽は確かめようがありません。

でもそうするともはやいよいよキリがないのですね。



また、あえていえば武勇があるから有名になったとも言えますよ。

少なくとも虚名だけで生き延びられるような時代ではありませんでしょう。

袁術は皇帝を名乗るだけあって英雄だったと思いますか?

袁術は皇帝を名乗るだけあって英雄だったと思いますか?

少なくとも三国志に欠かせない人物と思います。

董卓の次に必要な悪役だったと思います。

皆さまの袁術の評価はどうですか?







紛れもなく英雄と呼べる人物ですね。ただし、それは「皇帝を名乗ったから」ではありません。



正史の『三國志』や『後漢書』の袁術伝をよく見ると分かると思うんですが、元々中央政界にあって地方に地盤を持たなかった人物です。それが董卓のクーデターに際して身一つで地方に逃れ、荊州南陽郡の太守が死ぬと瞬く間に掌握と支配を完了し、豫州進出こそ結果的に失敗しますが揚州の寿春に進出し揚州北部を完全制圧しています。当時の揚州刺使は劉ヨウですが、『演義』で語られるような小人物ではなく名声も人望も軍事力も兼ね備えたひとかどの人物であったのに、それを正面から打ち破っています。

この間、約6年(189~195年)です。袁紹が公孫サン[王贊]を倒すのにかかった期間が約9年、曹操が袁紹の残党を掃討するのにかけた期間が約7年。それを考えれば相当な実力と才幹の持ち主です。また、そういった軍事的行動と平行して袁紹の劉虞擁立を弾劾し、孫堅・孫策を配下に迎え、公孫サンや呂布・陶謙と同盟し、周瑜や陸康といった揚州名士にもコネクションを得ています。

袁紹や曹操と同様に、勢力拡大に努め天下に霸を争う姿勢を明確にしており、彼を英雄と呼ばないならば曹操や袁紹もまた英雄とは呼べなくなります。



袁術の失敗は皇帝になった事ではなく、その思想があまりに急進的(革命的)過ぎた事です。劉虞を擁立してワンクッション置こうとした袁紹(改革的)のような手法を取らず、自ら即位しましたが、配下の諸将を含めて理解し賛同した者が皆無だったために滅んだだけです。後漢の命脈がすでに尽きていたのは後の歴史を見れば明らかであり、袁術の思想が間違っていなかった事を証明しています。



袁術は紛れもなく英雄です。ただ、「早すぎた英雄」でした。時代の変革者はいつの時代も「少しだけ遅れてくる」のであり、後漢末はそれが曹操だったのです。








何万、何十万いや何百万といたであろう当時の中国人のなかで今でも名を残しているんですから、英雄と呼んでもおかしくは無いでしょう。そりゃ天下をとれなかったんですけど、それは結果論、劉備だって孫家だって天下をとれなかったんですから。物語では悪役になってますが、それは悪役を創らないとヒーローが目立ちませんから、実際はそれなりの家柄と力を持っていたんじゃないですかね。







一時期の袁術は曹操を圧倒しておりました。



幾多の英雄たちが天下の覇権を争ったのですから紛れも無く英雄の一人です。

漢王朝は有名無実です(将に革命として)新王朝を名乗っても不思議ではないでしょう。







実力も無いのに「皇帝」を名乗るから、バカ扱いされるのです。名門の袁家の名前だけで兵隊を集めたまではいいが、呂布や曹操、劉備にも破れた負け犬が皇帝を名乗る資格はありません。







英雄とは口が裂けても呼べません!ちょっと言いすぎかな?劉氏でもないのにしかも漢王朝の権威はまだ残っていたのに、皇帝を名乗るなんて自殺行為です。それができないから曹操は皇帝を補佐して権力をふるうという手段を選んだのに。はっきりいってただのバカです。

三國無双6をやっているんですが、馬岱って過去に何かあったんですか?

三國無双6をやっているんですが、馬岱って過去に何かあったんですか?

「孤独な俺を癒してくれてありがとう」とか

「実は暗いんだよねー」みたいな事言ってたんですが・・・

かなり気になります!!

いつも明るいのに、いきなり真面目な声で・・・一瞬誰!?って思ってびっくりしましたw

面白そうだから戦友にしたのに、なんかギャップにやられましたw

私だけじゃないですよね?やられた人w



あと郭嘉ってなんでいるのかわからないんですが・・・

出番少なすぎてガッカリですよね?





あと絆MAXになったら武将がなにげに告白しますよね

なんか違うゲームになってるwまぁ気分いいからよしとするwww

それで妻(または夫)がいるキャラでも君の事好きだよ(たぶん友としてだけど)

みたいな事言うんでしょうか?

とうたくとかも言うんですかね・・・寒気がwww





最後の質問です

私は今王元姫をつかっているんですが

敵武将に攻撃しても呂布みたいに普通に立っているんですけど

攻撃力をあげても普通に立ってるんですが

そういう武器なんですか?







>三國無双6をやっているんですが、馬岱って過去に何かあったんですか?



私も詳しくはないですが、馬超の父・馬騰が許都で殺害された時に同行していて、馬岱は命からがら西涼に戻ってきたとか…

馬岱の性格設定については、手元に本とかがないので詳しいことはわかりませんが、設定資料集とかには書いてあるかもね。

馬超が堅物で直情型で一直線ですから、補佐役の馬岱が空気を読んで道化を演じている、けれど実は正反対の性格で天邪鬼ってことじゃないかなーと。





>あと郭嘉ってなんでいるのかわからないんですが・・・

>出番少なすぎてガッカリですよね?



郭嘉は猛将伝という追加ディスクで追加されたキャラクターです。6では本編に絡めないおまけ的な存在ですから、王異やホウ徳などと同じように出番が限られてしまうのはしかたのないことです。

そもそも6は、ストーリーモードの仕様上、キャラクターの出番に差が出てしまいました。それをフォローするためのレジェンドモードなので、猛将伝からの追加キャラばかりにスポットはあてられなかったんじゃないかな。

次回作では出番は増えるでしょう。三国志の方でも、曹操に信頼されたすごい人ですしね。





>あと絆MAXになったら武将がなにげに告白しますよね

なんか違うゲームになってるwまぁ気分いいからよしとするwww



元からです。今に始まったことではありませんよ。

三国無双3猛将伝の頃から異性への告白ととれる台詞が存在します。4猛将伝にも、5Empiresにも、戦むそクロニクルにもありますから、通常運転。





>それで妻(または夫)がいるキャラでも君の事好きだよ(たぶん友としてだけど)みたいな事言うんでしょうか?



配偶者がいようが子供がいようが言います。

勿論董卓も言いますよ。3猛将伝の董卓の台詞は、いい感じだったんですけど、5からのキャラデザは人間やめちゃってますから…さすがにちょっと怖いですね 笑。





最後に、王元姫の武器(ヒョウ)について。

攻撃を受けて敵武将がのけぞったりすることを「ひるむ」とか言うんですけど、「呂布みたいに」、ということはその怯みがないということですよね。

この武器は攻撃力の強いものを使っていても、キャラの攻撃力を上げても「通常攻撃(□ボタンで出せる攻撃)」ではひるみません。

チャージ攻撃(△)だと敵将はひるみますから、チャージ攻撃を含めた立ち回り方をすればいいかと。

チャージ攻撃の使い方と印の選択次第で、不都合なく使える武器になると思います。








馬岱には発売日から散々ヤラレ撒くって今に至ってます・・OROCHI2が楽しみすぎて死にそうです。マジで。



馬岱は一族の中で残ったのが馬超とたった二人っきり(実際は馬超の死後官位?とかを継いだ息子の馬承が存在しますが)

で馬超はあの通りの直情型で、しかもなまじ強いもんだから放っておくと一人で突っ込んで行って死んでも曹操の首取りそうな人。

だから馬岱は自分の悲しいのとか辛いのとかは全部押し殺して道化なんですよ。

自分がいつも明るく、くだらない態度でも見せてれば馬超も思い詰めなくて済むだろう、そんな感じですかね

でもそれを真に理解してくれる人も、何もかも素直に話せる相手はない



そういう意味で孤独であり、心には暗いところもあるのだと自分は思ってます。

そもそもピエロって顔に涙のペイントしますよねーおどけて人を笑わせてるのに中に悲しみを持つという意味で。

馬岱はまさにそれなんですね



絆MAXになると結構色々言いますが、やっぱり武将の性格は反映されたものにとどまってたような・・





王元姫はよく分かりません;

三国志時代に出てくる異民族の名前、位置などを教えてください。 詳しく、誰がど...

三国志時代に出てくる異民族の名前、位置などを教えてください。



詳しく、誰がどの辺りに侵攻した。など教えてくれると嬉しいです







◇匈奴

匈奴は、衛青・霍去病との度重なる合戦で勢力が衰退し、後に内紛が発生して南北に分裂します。建安二十五年(西暦二一六年)、南匈奴の呼厨泉が配下を引連れて魏王国へ来朝し、曹操は彼等を厚遇します。



◇烏桓

烏桓は、匈奴に替って勢力を拡大し、支那北部へ度々侵入します。中平三年(西暦一八七年)、中山太守張純が烏桓と連帯して青州・徐州・幽州・冀州へ侵入します。中平五年(西暦一八八年)、幽州牧に任命した劉虞は、其の張純を討伐します。

烏桓・鮮卑の中で暮らして頭角を現した閻柔は、建安五年(西暦二〇〇年)に曹操へ使者を送って従臣し、建安十年(西暦二〇五年)に配下の烏桓・鮮卑を引連れて曹操の許に参上します。後に曹操は、幽州・并州で閻柔が統率する烏桓を内地へ移住させ、烏桓兵を自軍へ編入します。



◇鮮卑

鮮卑は、烏桓と同様に支那北部へ度々侵入します。建安十六年(西暦二一一年)、鮮卑内で勢力を拡大させた軻比能は、閻柔に味方し、叛乱を起こした田銀討伐に協力します。が、建安二十三年(西暦二一八年)、軻比能は背いて支那へ侵入攻します。曹操は息子曹彰を派遣し、此れを撃退します。

太和五年・建興九年(西暦二三一年)、諸葛亮が第三次北伐で軻比能へ出兵を要請します。軻比能は、要請に呼応して郡石城へ進出しますが、其れ以上の積極的な行動を見せずに撤退します。



◇羌

光和八年(西暦一八四年)、黄巾の乱が発生して支那が大混乱に陥ると、羌を含めた中原北西部の異民族が動き出します。同年、羌の部族先零羌と盗賊が連帯し、涼州へ侵入します。



◇山越

山越は、現代の江蘇省南部・安徽省南部・浙江省北部、長江下流南岸の山間部に散在した少数民族です。歴史書『三國志』の『呉書』に伝が有る将軍は、粗総て一度は山越討伐を経験しています。特に賀齊は、粗一生を山越討伐に捧げます。後に山越は、諸葛恪の巧妙な処置で帰順します。



◇西南夷

西南夷は、南中と呼ばれた益州南部、現代の貴州省西部・雲南省の山間部で国家を形成した各部族の総称です。建興元年(西暦二二三年)、劉備崩御を知った西南夷が一斉に蜂起します。建興三年(西暦二二五年)、諸葛亮が南征して西南夷の蜂起を鎮圧します。








武都にはテイ族や羌族についての記述が見られますし、蜀の南部では蛮族があります。

レッドクリフ1・2を見ました。映画では、赤壁の戦いでシュウユ・リュウビ軍が勝っ...

レッドクリフ1・2を見ました。映画では、赤壁の戦いでシュウユ・リュウビ軍が勝ったっぽいですが、実際はどんな結末だったのでしょうか!?そしてソウソウはあの戦いの後どうなったのでしょうか!?







先行の皆様のご回答には、いずれも小説『三国志演義』の影響が見受けられますね。私は正史『三國志』から回答致しましょう。



208年7月、曹操は荊州の劉表を攻めるべく、軍を発して南下を開始しました。

しかし翌8月、荊州の劉表は病死し、後を継いだ次男の劉ソウ[王宗]は9月、戦わずに曹操に恭順する事を決定します。

曹操は荊州のほぼ全土を支配下におさめ、旧劉表配下の処遇や荊州各郡の太守配置など人事を一通りすませてから11月に孫権に対して降伏勧告の手紙を送ります。



劉備は劉表死後も荊州の新野に駐屯していましたが、9月に荊州が降伏した事を知らされず、曹操軍が目前に迫って初めて気付きます。

慌てて南下して江陵に逃れようとしますが、物資の集積地である江陵を押さえられるのを嫌った曹操が軽騎兵を急派して劉備軍を打ち破り、劉備は船で東(揚州)との境界に近い夏口に逃げ延びます。

劉備は諸葛亮の進言で孫権に救援要請する事を決断し、諸葛亮を呉に派遣します。折しも劉表の病死と曹操の南下を受けて劉備の動向を気にしていた孫権配下の魯粛が荊州にやって来ており(名目は劉表の弔問)、諸葛亮を伴って呉に戻ります。



呉では群臣の多くが曹操への恭順に傾き孫権も迷っていましたが、諸葛亮は「劉備は曹操に屈しない」と明言し、魯粛は「外事は周瑜に相談すべき」と説き、周瑜は曹操軍の不利と自軍の有利を極めて的確に分析し「3万あれば必ず曹操軍を打ち破る」と宣言します。



こうして孫権は開戦を決断し程普と周瑜に3万の軍を授け、それを受けて曹操も烏林まで軍を進めます。

緒戦で周瑜の水軍に敗れた曹操は烏林北岸に軍を留め、戦況は膠着します。これを打開すべく黄蓋は火計を進言し、その為に曹操へ偽りの降伏を打診します。

曹操は最初疑いましたが、黄蓋と周瑜が不仲であり、黄蓋はむち打ちの刑を受けて重傷を負って恨んでいる事、呉の臣下も人民も曹操の徳を慕っており、周瑜と魯粛だけが意固地になっている事…などと伝える黄蓋の手紙を読み、黄蓋が遣わした使者を引見し細かく質問し、ついに信用します。

曹操は曹操で、緒戦の敗北や荊州降伏兵の加入で士気が上がらない事や、不慣れな風土で陣中に蔓延していた疫病に悩まされており、船を繋いで水上の揺れを軽減するなどの対策も効果なく撤退まで視野に入れていたところだったので、黄蓋の偽降を信用したくなったのも無理はありません。



そして約束の日、黄蓋は油を染み込ませた藁束を満載した高速船に火を放ち、曹操の繋いだままの船団に突っ込ませます。火は瞬く間に曹操の軍船を焼き払い、陸上の陣営までも延焼します。

曹操軍は焼死や溺死など多大な損害を出し、撤退するしかなくなりました。



ちなみに劉備は、夏口に逃れた時に約2000しか兵力をもっておらず、孫権の助力を得たものの勝ち目は薄いと考えていました。加えて周瑜が率いてきた3万を少なすぎると考え、周瑜が「後方でとくとご覧あれ」と勧めたのもあり後方に待機していました。

つまり、関羽・張飛・趙雲を含めてほとんど戦闘参加していません。また諸葛亮も劉孫同盟に貢献した後は特に何も記されてはおりません。



曹操は荊州の州都である襄陽や物資集積地である江陵に曹仁らを残し、自らは本隊を率いて荊州から一路北を目指します。周瑜・劉備らはそれを追いますが、江陵で曹仁に足止めをくらい、徐晃・李通らが曹仁の援軍として次々に投入された事もあって、約1年にも及ぶ激戦を戦う事になります。

曹操は3月にはショウ[言焦]へと無事に帰還を果たしました。

また劉備は周瑜ら呉軍と別れて荊州南方の征討へと向かい、長沙・桂陽・零陵・武陵と次々に陥落させ、徐州失陥以来久々に独自の根拠地を得る事となります。

孫権はこれを不満を持ちましたが、反曹操としての劉備を必要と考えた魯粛の進言により、劉備の荊南支配を認めます。



周瑜は最終的に曹仁を敗走させ宛など一部を除いた荊州北部の制圧に成功しますが、戦いのさなかに重傷を負い、その治療もそこそこに益州攻略を計画しますが、結局負傷が癒えず他界してしまいます。



以上、赤壁の戦い前後の大まかな流れです。

魏書太祖武帝紀(曹操伝)

蜀書先主伝(劉備伝)

呉書周瑜伝

呉書黄蓋伝

などを参考にしました。










曹操はわずかな部下とともに逃げますが

途中で劉備軍の攻撃や難行軍で次々兵を失い

ぼろぼろになりながら曹仁の城までたどり着きます。

その後さらにわずかな兵とともに許都?へ帰ったそうです。その間に

劉備がけいしゅうを奪います。







実際も劉備・孫権が勝ち、その逃げる道で劉備の部下たちが待ち受けていて曹操のわずかな兵は粉々に粉砕されますが、いろいろあってなんとか助かります。



それから南下をやめます(延期)。

そのあと勢力を盛り返してまた何度も攻めてきます。





正史はあまり読んでませんでした。

なのに知ったかしてすいません。







http://mwkp.fresheye.com/mb/m.php/%e4%b8%89%e5%9b%bd%e5%bf%97?from=...

旦那曰く、あれは妙な脚色ありすぎでレッドグリフは微妙だそうです。

確かに派手な部分ではありますが、嘘の脚色で綺麗にしすぎな上に、尻切れとんぼ状態で歯がゆいらしいですよ。







赤壁の戦いで曹操をやぶったが

その後劉備わ曹操を追撃したが

にげられ

孫権わ曹操の逃げた

合肥をせめた