質問-35
三国時代の旧正月について
日本では残すところあと1週間で平成21年が終わります。
今年もいろいろあって激動でした。
年賀状は書き終わりましたか?
中国は旧正月を祝うんですよね。2月3~5日でしたっけ?
ところで、今から1791年前、西暦220年建安25年は後漢最後の年、
3月に改元されて延康元年になるわけですが、
当時の旧正月というのは、やはり大々的にお祝いしていたんですか?
お目出度い書とか絵を飾ったりする習慣は当時あったのでしょうか?
(220年は献帝も正月どころではなかったと思いますが)
誕生日とか言う習慣はまだ無かったようですから、
感覚的に、旧正月(歳首)を迎えて、
自分の歳も一つ加えるようなイメージがあるんですが、どうなんでしょう?
例えば、君主からお年玉的なものが、
配られたりということがあったりしたのでしょうか?
うちの子供は二人とも社会人になりましたので、
お年玉は孫が生まれるまで必要ありません。
先日、息子から逆にお年玉あげようかなんていわれて、
丁重にお断りしました。
…もう何書いても誤回答になってしまいますね( ̄∀ ̄;
ひとつだけ。
建安から延康への改元は3月ではなく1月末から2月初旬のはずですよ。曹操が薨去し曹丕が魏王を継いだ直後だったはずです。
(ちくま訳八巻の年表上は1月になってます)
当時の改元は翌年の年明けから適用というのが慣例ですが、建安25年をキャンセルして年始から延康元年としたのか、1年待って翌年正月から延康にする予定が漢魏革命により翌年が黄初(魏王朝の年号)、年内が延康となったのかは定かではありません。
年初には新年を祝いますが、jiitanioさんがお詳しすぎるので私にはもう何も書けません(^_^;
蛇足的なエピソードを挙げます。
『三國志』魏書朱建平伝に夏侯威の寿命を占った記事があり、占いに出た通りに夏侯威は病を患います。49歳の12月上旬に病気になり、下旬には快方に向かいますが、30日夕方に容態が急変し未明に死去します。
この時の夏侯威の言葉に「明日の鶏鳴になればもう50だ(朱建平の指摘した災いは過ぎた)」と語った記述があります。この記事から、当時の年越し(と加齢)のタイミングが日没ではなく夜明けだった事が分かります。
本当に蛇足です(^_^;
日本は「もういくつ寝るとお正月」ですね。
中国は旧暦元月初一(旧正月)を祝うので、新年ムードはまだまだです。
新暦1月1日は休日ですけど、まあ、普通の休日って感じですね。
今年は新暦2月2日が除夜(中国語では「除夕」)、2月3日が春節です。
2009年は新暦1月25日が除夜、26日が春節で、1月に2回新年を祝えて得した気分でした(私だけ?)。
現在、旧暦元月初一を「春節」と言っていますが、この名称が確定したのは中華民国以降のことで、それ以前の「春節」とは立春のことを指したとも言います。
農民にとっては正月より立春の方が大事な節目だったのでしょう。
通常、旧正月と立春は近いので(だいたい前後10日位)、民国時代以降、名称の変更が比較的容易に受け入れられたのかもしれません。
正月は数えで1歳増える日ですが、それよりも「古い一年から新しい一年に変わる日」という意味合いの方が大きく、現在でいう誕生日的な位置付けは無かったと思います。
「除夜」の「除」は「去」の意味で、「除夜」は「古い時間から去る夜」とされています。
1年間でとりついた悪運を除くため、魔除けの儀式等も行われたようです。
年末大掃除はこの名残かもしれません。
後漢から三国時代、旧正月は何と呼ばれていたかですが、
「歳旦」「正旦」「正日」「元辰」「元日」「元首」「歳朝」
等という名称が有ったようです。
清代になって
「元旦」「元日」
という名称が確定したようです。
(現在の中国では「元旦」は通常、新暦の正月を指します)
春節の行事ですが、後漢崔寔の『四民月令』という農書に詳細が書かれているようです(原文は未確認です)。
大意はこんな感じです;
正月になったら酒を神様に勧めて降臨を祈ります。その後、尊卑大小の区別なく家中のものは全て、先祖の前に座り、子、孫、曾孫が家長にお酒を勧めます。
また、新年になったら君、師、親戚、父の友人、知人、村や町の幹部にあいさつ回りに行きます(これを「拜年」といい、現在でも行われます。私も留学時代、先生の家を訪問して回りました)。
宮中では漢代から宴会が開かれていました。
『晋書志第十一礼下』の記述です。
「漢儀有正会礼,正旦,夜漏未尽七刻,鐘鸣受賀,公侯以下執贅夹庭,二千石以上升殿称万歳,然後作楽宴飨。魏武帝都鄴,正会文昌殿,用漢儀,又設百華灯」
漢代の儀礼では正月になると、まだ夜が完全に明けないうちに鐘が鳴り、朝賀が始まったようです。公侯以下、臣下が貢物を持って朝廷に集まり、二千石以上のものは殿上で万歳を称えました。その後、宴会が始まります。
魏武帝は鄴都文昌殿で漢の儀礼に則って朝賀会を行い、百華灯を設けたそうです。
元の『文献通考第百六王礼考一』に「貢物」に関する記述が有ります。
「公、侯璧,二千石羔,千石、六百石雁,四百石以下雉。」
公侯は璧、二千石は羔羊(子羊)、千石、六百石は雁、四百石以下は雉だったようです。
『文献通考』には行事の詳しい内容も有りました。
簡単に説明すると;
三公が璧を献上するため殿に上り、北面して席に座ります。太常が祝辞を述べ、三公が伏します。皇帝が席に着いたら、璧を献上します。その後、百官が杯を持ち皇帝に酒を勧め、司空が羹、大司農が飯を奉上し、食事をする時の音楽が演奏され、宴会が始まります。
宴会は日が暮れるまで行われたようです。
(『文献通考』には更に細かい内容が書かれていますが、省略させていただきます。
http://www.confucianism.com.cn/detail.asp?id=13543
真ん中よりちょっと下辺りです)
どうやら皇帝から臣下に「お年玉」を出すのではなく、臣下から皇帝に貢物を献上したようですね。
皇帝から臣下へは
「諸侯王朝見天子,漢法当四見。始到,入小見;到正月朔旦, 奉皮荐璧玉賀正月,法見;後三日,為王置酒,賜金銭財物;後二日,復入小見, 辞去」
とあります(『文献通考』より。おそらく『史記』からの引用です)。
諸侯王は4回皇帝に会うことになっていて、1回目は都に入った時、2回目は新年の朝賀の時、3回目はその3日後、王のために酒宴を設けた時、最後はその2日後、国に帰る時です。
3回目の宴会の時に「金銭財物」を下賜したようです。
他の臣下に対しても、正月の宴会の席ではなく、後日に金銭財物が下賜されたと思われます。
具体的な数量はちょっとわかりませんでした。
民間のお年玉(中国では「圧歳銭」といいます)は漢代には有り、元々は魔除けの意味が有ったらしいです。
詳しく書けばきりが無いのですが、そろそろ字数が無くなるので、これにて・・・。
少し時代が後になりますが、『荊楚歳時記』等を見ますと、暗い内から百官は松明を掲げて宮中に出仕し、夜明けとともに皇帝を迎えて朝賀の儀が行なわれました。
それが終わると帰宅し、爆竹(今の火薬を詰めたものではなく、青竹を火にくべてはぜるもの)を鳴らして悪鬼を払い、門には画鶏や桃の板を掲げて邪を払いました。
また、家族揃って衣冠を正し、椒柏酒(山椒とビャクシンを配合した香りの強い酒)を進め、桃湯を飲み、屠蘇酒・膠牙湯(固い飴・歯を丈夫にすることを願う)を進め、五辛盤(にんにくなど五種類の刺激の強い植物で邪気を払う)を食べた…等の記録があります。
ところで、この時代は旧暦ですから「旧正月」などありません。1月1日が正月です(それが今の季節では2月上旬です)。